百日天下|ナポレオン最後の復活劇

百日天下

百日天下は、1815年にフランス皇帝ナポレオンが地中海のエルバ島から脱出し、パリで帝位を回復してから、決戦であるワーテルローの戦いの敗北と再退位に至るまでの短い期間の政権を指す呼称である。ナポレオン帝政の「復活」であると同時に、フランス革命以来の諸成果と立憲主義を守ろうとする試みでもあり、ヨーロッパ列強が進めていたウィーン会議を揺さぶる事件となった。この時期の終焉は、長く続いたナポレオン戦争の最終的な決着であり、同時にウィーン体制の出発点を画した出来事である。

百日天下の時期と呼称

百日天下という名称は、1815年春にナポレオンがパリに帰還してから、ブルボン朝が再び王権を回復するまでの期間がおよそ100日前後であったことに由来する。一般には、ナポレオンがパリ入りした3月20日から、国王ルイ18世が再入城するまでの期間を指して用いられることが多い。実際の日数は100日をやや超えるが、「百日」という表現には、劇的な政権の復活と急速な崩壊という印象を強く喚起する効果があり、後世の歴史叙述において定着した概念となったのである。

ナポレオン失脚とブルボン朝復古

1810年代前半、ヨーロッパを席巻したナポレオン戦争は、1813年のライプツィヒの戦いでの敗北を転機としてフランスの劣勢が決定的となった。連合軍はフランス本土に侵攻し、1814年にはパリを占領する。これによりナポレオンは退位を余儀なくされ、地中海の小島エルバ島への流刑が決定した。一方フランス本国では、旧王家であるブルボン朝が復活し、王として即位したルイ18世のもとで王政復古が進められた。しかし亡命貴族の復帰や貴族的特権の復活を望む勢力が力を持つと、多くの国民、とくに革命と帝政期を通じて昇進の機会を得た官僚や軍人たちは不満を抱き、王政と心情的な距離を感じるようになったのである。

エルバ島脱出とパリ奪回

こうした不満を背景に、1815年2月末、エルバ島にいたナポレオンは護衛兵を率いて島を脱出し、南仏の海岸に上陸した。彼はパリへ向けて進軍しながら兵士や農民、都市の住民に呼びかけ、各地で配備されていた王党派部隊は次々と彼に合流したと伝えられる。ルイ18世は事態の収拾に失敗し、やがてパリを離れて亡命を選択した。その結果、ナポレオンは3月20日にパリへ入城し、帝位への復帰を果たす。これによって、短期間ながらも百日天下と呼ばれる第二の帝政期が始まったのである。

国内政治と百日憲章

復権したナポレオンは、単なる軍事独裁者としてではなく、立憲的君主として国民の支持を広げる必要性を理解していた。フランス社会では、フランス革命以来の所有権の保障や法の下の平等、宗教的寛容などが既に広く受け入れられており、専制的支配への拒否感も強かったからである。そこでナポレオンは、1815年4月に「百日憲章」と呼ばれる追加憲章を公布し、帝政の枠組みを維持しつつも、立法府の強化や言論の自由の承認など、立憲主義的な要素を取り入れようとした。

  • 二院制議会の強化と選挙制度の整備
  • 言論・出版の自由を一定範囲で認める方針
  • 革命と帝政期の財産権・身分上昇の成果の維持
  • 旧貴族と新興ブルジョワジー・官僚層の融和の試み

これらの方策は、旧体制への逆戻りを恐れる人びとの支持を得る狙いがあったが、時間の制約もあり、国内を十分に統合するには至らなかった。それでも百日天下は、軍事独裁だけではない、立憲的帝政を模索する政治実験としての側面をもっていたと評価される。

第7次対仏大同盟の結成

一方で、ヨーロッパの列強諸国はナポレオンの復活を重大な脅威とみなした。すでに連合国はウィーンでウィーン会議を開催し、戦後秩序の再建と領土再編を協議していたが、ナポレオンの帰還はその合意を根底から揺るがしかねない出来事であった。そこでオーストリア、ロシア、プロイセン、イギリスなどは、第7次対仏大同盟を結成し、ナポレオンを「ヨーロッパの平和を乱す存在」として再び武力で討つことを決定した。こうして百日天下は、発足した直後から全欧的な戦争の危機にさらされることになったのである。

ベルギー遠征とワーテルローの戦い

連合軍が各地で動員を進めるなか、ナポレオンは敵の主力が集結する前にイギリス軍とプロイセン軍を個別に撃破しようと考えた。そのため彼は北東へ向かい、ベルギー方面へ進軍して連合軍の間隙を突く作戦をとった。初戦ではプロイセン軍を破る戦果をあげたものの、主力決戦となったワーテルローの戦いにおいてフランス軍は連合軍に敗北し、戦局は決定的に不利となった。ワーテルローでの敗北は、ナポレオン個人の軍事的名声だけでなく、百日天下そのものの命運をも断ち切る結果となったのである。

再退位とヨーロッパへの影響

ワーテルロー敗戦後、ナポレオン政権は急速に求心力を失い、国内外で継戦は不可能と判断された。ナポレオンはふたたび退位を余儀なくされ、今度は大西洋の孤島セントヘレナ島への遠い流刑に処されることとなる。フランスではブルボン朝が再び復古し、ルイ18世が王位に復帰した。こうして百日天下は終わりを迎え、ヨーロッパの政治秩序はウィーン体制の成立によって再編されることになる。この体制は、革命と帝政の再発を抑えつつ、列強間の勢力均衡によって大戦争を防ぐことを目指したものであり、19世紀前半の国際関係を方向づける重要な枠組みとなったのである。

コメント(β版)