白豪主義|豪州の人種排外政策

白豪主義

オーストラリアにおける白豪主義とは、白人系移民を中心とする国家を維持しようとして、非白人の移民や先住民を排除・差別した思想と政策の総称である。19世紀後半から20世紀半ばにかけて展開されたこの構想は、イギリス帝国主義、社会進化論的な人種観、そして入植社会として形成されたオーストラリアの歴史的経験と結びついていた。特にアジア系移民や太平洋諸島民、先住民であるアボリジニーに対する制度的差別として現れ、国境管理や市民権制度に深い影響を与えた。

白豪主義の概念

白豪主義は、白人(主としてイギリス系・ヨーロッパ系)の社会的・政治的優位を前提とし、オーストラリア大陸を「白人国家」として維持しようとするイデオロギーである。英語では「White Australia Policy」とも呼ばれ、移民制限法や同化政策、土地制度などさまざまな制度に組み込まれた。こうした構想は、帝国主義時代の人種主義と結びつき、太平洋を列強が勢力圏に切り分けた太平洋地域の分割とも連動して理解される。オーストラリアは、かつての流刑植民地としての出発点から、白人入植者の「理想の共同体」を築く場として位置づけられるようになった。

歴史的背景

19世紀前半、オーストラリアにはイギリス本国から囚人が大量に送られ、刑期終了後には自由移民として定住した。その後、金鉱発見を契機に中国系を中心とする多数のアジア系労働者が流入し、鉱山や農園で働くようになる。こうした人口変化は、白人入植者の間に失業や賃金低下への不安、人種的偏見を強めた。帝国主義期におけるアフリカ分割やイタリアのアフリカ侵出、モロッコ保護国化、イタリア=トルコ戦争などと同様、オーストラリアでも列強の競争と人種観が絡み合い、非白人を排除する論理が形成されていった。

制度としての展開

1901年にオーストラリア連邦が成立すると、連邦政府は白豪主義を国家レベルの基本方針として採用した。移民を事実上白人に限定するため、移民制限法によって「書き取りテスト」と呼ばれる言語試験を導入し、官吏が指定した欧州言語の文章を書き取れない者を入国拒否できるようにした。また、太平洋諸島民労働者法によってサトウキビ農園で働いていた太平洋諸島民の多くが退去を強いられた。これらは名目上は言語能力や契約労働の問題とされたが、実質的にはアジア系や太平洋諸島民を排除するための仕組みであった。

  • 移民制限法による書き取りテストの導入
  • 太平洋諸島民労働者の強制送還
  • 非白人への帰化・参政権の制限

アジア諸国との関係

白豪主義は、アジア諸国との外交関係にも影響を与えた。とくに日本は、日英同盟を通じてイギリスと同盟関係にあったにもかかわらず、日本人移民が差別的に扱われることに強い不満を抱いた。日本政府は繰り返し待遇改善を求め、国際会議の場でも人種平等の原則を主張したが、オーストラリア側は白人優位の移民政策を譲らなかった。このことは、太平洋戦争以前からの不信感の一因ともなり、後に日本が太平洋で勢力拡大を図る際の背景の一つとしても位置づけられる。

先住民政策との関連

先住民であるアボリジニーに対する政策も、白豪主義と密接に関係していた。白人入植者は土地の所有権を一方的に主張し、狩猟採集社会を営んでいた先住民を周縁化した。19世紀末から20世紀前半にかけては、先住民を保護区に隔離したうえで、白人社会への同化を目指す政策が取られ、混血児を親元から引き離す「盗まれた世代」と呼ばれる事例も生まれた。こうした先住民政策は、同時代のアフリカでの支配地域であるエリトリアやソマリランドなどに見られる植民地支配と同様、人種階層を前提とした統治構造の一部であった。

衰退と廃止

第二次世界大戦後、国際社会で人種差別の撤廃と植民地支配の解体が進むと、白豪主義も徐々に見直しの対象となった。戦後のオーストラリアは労働力不足を補うために移民を必要とし、ヨーロッパ各地から多くの移民を受け入れたが、同時にアジアとの経済的結びつきも強まった。1960年代以降、移民法の改正によって人種や国籍による制限が段階的に緩和され、1970年代初頭には形式的に人種条件を撤廃した新たな移民政策へと転換した。その後、オーストラリアは多文化主義を掲げ、かつての白豪主義を批判的に捉え直しつつ、先住民や移民の権利保障を進めていくことになった。

コメント(β版)