疏勒
疏勒は、タリム盆地西縁のオアシス都市カシュガル(現・新疆ウイグル自治区喀什)を中心に展開した古代オアシス国家である。西域経営を進めた漢帝国の勢力圏に早くから組み込まれ、後漢・魏晋南北朝・隋唐期を通じて交通と軍事の要衝を占めた。東西交易の結節点としてソグド系商人やインド・イラン系文化を受け入れ、仏教をはじめ多元的な信仰が並立した。地理的には天山南路とコンロン山北麓路の分岐点に位置し、隊商の集積と灌漑農耕に支えられた都市オアシス社会を形成した。
地理と環境
疏勒は天山山脈とパミール高原の接点にあり、周囲を砂漠と山嶺に囲まれる。雪解け水を水源とする扇状地のオアシスに都市と耕地が展開し、麦・粟・葡萄・果樹などの栽培と牧畜が組み合わさった。峠越えの街道が複数交差し、交通地政学が政治秩序を左右した。
名称と呼称
中国史書は「疏勒国」と記し、音写起源はイラン系とみられる。西方資料では Shule、近世以降はカシュガル Kashgar の名が一般化する。呼称の差は支配勢力と言語環境の変遷を反映し、同一地域の都市国家が時代とともに多名性を帯びたことを示す。
形成と漢帝国との関係
前漢は張騫の報告を契機に西域経営を本格化させ、烏孫・康居・亀茲などと並ぶ要地として疏勒を位置づけた。漢書・後漢書西域伝は王・貴族・官僚の存在、朝貢外交と互市、軍事的従属と自立の揺れを伝える。地方王権は漢の都護・校尉権限下で自治を保ちつつ、対外関係で主導権を巡った。
魏晋南北朝・突厥・吐蕃との角逐
4~7世紀、西域は北方遊牧政権と中原王朝の影響が交錯した。柔然・突厥の台頭は西域諸国の宗主関係を変動させ、やがて吐蕃がタリム西部へ進出する。疏勒はその都度、宗主の変更や二重従属を受け入れ、生存戦略として交易路の掌握と関税収入を最大化した。
唐代と安西都護府
唐は西域再編を進め、安西都護府の管下に四鎮を置いた。一般に亀茲・于闐・焉耆が重鎮とされるが、パミール方面の扼要として疏勒の軍政的価値は高く、唐軍の駐屯・節度使勢力の往来が記録される。安史の乱以降、吐蕃・回鶻の勢力拡大に伴い唐の実効支配は弱まり、現地王権と周辺遊牧勢力の均衡が再び秩序を決めた。
経済と交易
- 隊商活動:絹・香料・宝石・毛織物・良馬が行き交い、税関・宿駅・市が収入源となった。
- 灌漑農耕:用水路や井渠が整備され、果樹園と葡萄栽培が発達。ワイン文化の浸透も指摘される。
- 手工業:皮革・金属細工・織物が地場産業化し、周辺オアシスとの分業が成立した。
文化と宗教
仏教はガンダーラ美術の影響を受けて受容され、石窟・壁画・写本が出土する。ゾロアスター教・マニ教・キリスト教東方教会の痕跡も認められ、多元的信仰が共存した。ソグド人商人は言語・書記・商慣行を持ち込み、疏勒の都市文化に国際性を与えた。
言語環境の多層性
イラン系言語・トカラ語系・インド系諸語・突厥語などが交易現場で併存し、行政・宗教・商取引で異なる言語が使い分けられた。その結果、固有名詞の表記は複数の系統が併走した。
史料と考古
漢書・後漢書・魏書・隋書・旧唐書・新唐書の西域伝、さらに敦煌文書や碑刻が疏勒の政治・税制・軍事を伝える。考古学では都市址・城壁・水利遺構、寺院址、写本片などが確認され、テキスト史料の叙述を補正・具体化している。
対外関係と軍事
疏勒は峠道の抑えとして砦と柵、騎馬戦力を維持した。外交は婚姻関係・人質・互市規約の組み合わせで、軍事的後背地を確保しつつ、関税権と市場の安定を求めた。周辺の亀茲・于闐・焉耆・石国(チュイ河流域)などとの横の連携も重要であった。
年表(概略)
- 前2世紀:漢の西域経営進展、疏勒王権が朝貢圏に編入。
- 1~3世紀:後漢・魏晋期、都護府と在地王の協調と緊張が交錯。
- 6世紀:突厥の宗主化、交易路再編。
- 7世紀:唐の西域掌握、安西系統下で軍政的要衝に。
- 8世紀後半:安史の乱後、吐蕃・回鶻の圧力増大。
都市社会と法・税
市は計量・通用貨幣・税率の規定により管理され、関所での通行税や市舶税に準ずる課徴が課された。王・貴族・官僚・商人・僧侶が都市の権力・財の分配を担い、灌漑水利と軍事負担が共同体の基礎を成した。
灌漑と都市計画
河道の分水・井渠・堤の管理が国家の最重要課題で、用水の配分は地割・収穫・税に直結した。城壁と街門、市・倉・官署・寺院の区画は交通の流れを前提に配置された。
意義
疏勒はタリム盆地西端のゲートウェイとして、東西世界の物流・宗教・知の移動を媒介した。複数の大国の狭間で均衡を取りつつ、オアシス国家としての自律を保った歴史は、西域の重層性と地域間システムのダイナミクスを示す好例である。