江川英龍|反射炉を築きパンを広めた幕末の名代官

江川英龍

江川英龍(えがわ ひでたつ)は、江戸時代後期の幕末期に活躍した幕臣であり、伊豆国韮山代官所を拠点とした代官である。通称の太郎左衛門(たろうざえもん)、号の坦庵(たんあん)としても広く知られる。江川英龍は、欧米列強の脅威が迫るなかで、日本の海防の必要性をいち早く唱え、西洋流砲術の導入や反射炉の建設、品川台場の築造など、軍事・技術の両面で近代化の礎を築いた。また、兵糧としてのパンの製造や種痘の普及など、民政や公衆衛生の分野でも多大な足跡を残した先駆的な政治家・技術者である。

生涯と代官職の継承

江川英龍は、享和元年(1801年)に伊豆韮山代官である江川英毅の次男として生まれた。江川家は清和源氏の流れを汲む名門であり、代々「太郎左衛門」を名乗って韮山代官を務める家柄であった。兄の早世により家督を継いだ江川英龍は、天保6年(1835年)に第36代代官に就任した。江川英龍は、代官としての職務に励む一方で、儒学や絵画、剣術などの諸芸にも通じ、多才な教養人としての側面も持っていた。特に海防問題については、伊豆や相模、安房などの海岸線を視察し、列強の艦船に対する警戒感を強めていった。

西洋流砲術の導入と門下生

江川英龍は、旧来の木銃や古式砲術の限界を痛感し、長崎の高島秋帆に師事して西洋流砲術を学んだ。天保12年(1841年)の武州徳丸ヶ原における演練を経て、西洋砲術の優位性を確信した江川英龍は、私塾である「韮山塾」を開設した。ここには、後の日本の近代化を担う多くの俊英が集まり、勝海舟海防政策と徳川家慶の信任

12代将軍の徳川家慶は、江川英龍の先見性と実務能力を高く評価し、彼を海防寄合席に抜擢した。嘉永6年(1853年)にペリー率いる米艦隊が来航し、黒船来航という国家的危機に直面すると、江川英龍は幕府に対して急速な防衛体制の整備を献策した。これを受けて着手されたのが、品川沖の砲台(台場)建設である。現在も「お台場」として地名が残るこの要塞群は、短期間で竣工し、当時の技術力の結実を示すものとなった。江川英龍は、海岸防備の第一人者として、幕府の国防政策を実質的に牽引したのである。

韮山反射炉と産業化

大砲を鋳造するためには、大量の鉄を溶かす高度な技術が必要であった。江川英龍は、伊豆の国市に「韮山反射炉」を建設することを決定し、オランダの技術書などを参考に自力での開発に挑んだ。建設途中に江川英龍はこの世を去るが、その遺志は息子の英敏らに引き継がれ、安政4年(1857年)に完成を見た。この反射炉は、現存する唯一の稼働可能な状態で残された近世の反射炉として、2015年に「明治日本の産業革命遺産」の一つとして世界文化遺産に登録された。江川英龍の情熱は、日本の重工業化への扉を開く重要な一歩となった。

「パン祖」としての功績と民政

江川英龍は、軍事面以外でも革新的な試みを行った。その代表例が「パン」の製造である。兵士が野外で活動する際、煙が出る炊飯は敵に発見されるリスクがあり、保存性の高い携帯食が必要であった。天保13年(1842年)4月12日、江川英龍は邸内で日本初の「兵糧パン(乾パン)」を焼かせた。このことから、彼は日本の「パン祖」と呼ばれ、現在でも4月12日は「パンの日」とされている。また、江川英龍は農兵制度の導入を提言し、身分を問わず国防を担う組織作りを模索した。さらに、領内の人々を守るために種痘を奨励するなど、領民の生活向上と福祉にも尽力した名代官であった。

明治維新への影響と評価

安政2年(1855年)、多忙を極めるなかで江川英龍は55歳で病没した。彼の死後、日本は激動の明治維新へと突き進んでいくことになる。しかし、江川英龍が育てた人材や導入した技術、そして「日本を守る」という強い意志は、新政府にも確実に受け継がれた。単なる幕臣の枠に収まらず、国家の将来を見据えて行動した江川英龍の姿勢は、日本における近代化の先駆者として高く評価されている。彼の邸宅である江川邸は現在も重要文化財として保存され、往時の志を今に伝えている。

項目 詳細
生没年 1801年 – 1855年
主な役職 韮山代官、海防寄合席、勘定吟味役
代表的な事績 西洋流砲術導入、韮山反射炉建設、品川台場築造、パン製造
主な弟子 佐久間象山、勝海舟、大鳥圭介など