歌川広重(三世)|明治の開化風俗を描いた浮世絵師

歌川広重(三世)

歌川広重(三世)(うたがわひろしげ さんせい)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本の浮世絵師である。初代歌川広重の門人であり、明治維新後の急速な社会の変化を鮮やかな色彩で描いた「文明開化絵」の第一人者として知られている。本名は後藤寅吉、のちに安藤徳兵衛と称した。彼は師である初代の画風を継承しつつも、西洋的な近代化が進む東京の街並みや鉄道、洋風建築などを積極的に題材に取り入れ、新しい時代の風景画を確立した。特に輸入顔料であるアニリン染料を用いた鮮烈な赤色は「赤絵」と呼ばれ、歌川広重(三世)の作品を象徴する大きな特徴となっている。

生涯と名跡の継承

歌川広重(三世)は、天保13年(1842年)に江戸で生まれた。幼少期より絵を好み、初代歌川広重の門下に入って一立斎広重と号した。慶応元年(1865年)に師の養女であったお多喜と結婚したが、この女性は以前、同門の兄弟子であった二代目広重(重宣)の妻であった人物である。二代目広重との離縁後、彼女と再婚したことで、慶応3年(1867年)に正式に「広重」の名跡を継承し、三代目となった。このように家系の継承には複雑な事情があったが、歌川広重(三世)は名実ともに広重の名を背負い、江戸時代から明治へと移り変わる激動の時代を絵師として生き抜くこととなった。

文明開化絵と「赤絵」の流行

歌川広重(三世)の画業において最も重要な功績は、明治維新以降の東京の姿を克明に記録した点にある。彼は、それまでの伝統的な名所絵の枠組みを超え、銀座の煉瓦街、築地ホテル館、新橋・横浜間の蒸気機関車、人力車が行き交う日本橋など、当時の人々にとって驚きであった西洋化の情景を次々と発表した。これらの作品は「開化絵」と呼ばれ、情報の伝達手段が限られていた当時、地方の人々にとって東京の近代化を知るための重要な報道媒体としての役割も果たした。また、化学染料を用いた派手な赤や紫を多用した色彩感覚は、江戸の落ち着いた情緒とは対照的な、明治という新しい時代のエネルギーを象徴するものであった。

代表的な作品群

歌川広重(三世)が遺した作品は多岐にわたるが、特に以下のシリーズや主題が有名である。

  • 『東京開化名所図絵』:開化期の東京各地を色彩豊かに描いた代表作。
  • 『東京名所之内 高輪蒸気車全図』:日本初の鉄道開通を祝し、煙を吐いて走る機関車を迫力ある構図で捉えた。
  • 『大日本物産図会』:日本各地の名産品や産業を網羅的に描いたシリーズで、教育的価値も高い。
  • 『東京名所図絵』:変わりゆく江戸の名所を明治の視点で再構成した作品群。

技法と西洋画の影響

歌川広重(三世)は、初代が確立した名所絵の構図をベースにしながらも、随所に西洋画の技法を取り入れた。遠近法や陰影法を意識した描写は、単なる情報の記録にとどまらず、写実的な空間表現を目指した試みといえる。また、錦絵の制作過程において、従来の天然染料では出せなかった鮮やかな色彩を大胆に使用した。これには、新しいもの好きであった明治の人々の感性に訴える意図があった。彼の作品には、しばしば電信柱やガス灯、洋服を着た人々が登場し、伝統的な浮世絵の技法と近代的なモチーフが融合した独特の様式美が完成されている。

晩年と浮世絵の終焉

歌川広重(三世)は、明治27年(1894年)に53歳で没した。彼の活動時期は、写真技術の普及や石版画の台頭により、木版画である浮世絵が衰退していく過渡期でもあった。晩年は、版画だけでなく肉筆画も多く手がけ、時代の需要に応え続けた。彼の死後、広重の名跡は四代目に継承されることはなく、浮世絵の黄金時代を支えた広重派の系譜は一つの区切りを迎えることとなった。しかし、歌川広重(三世)が描いた活気あふれる明治の風景は、歴史資料としても極めて貴重であり、今日でも当時の世相を伝える第一級の資料として高く評価されている。

歌川広重(三世)の主要な経歴

年次 出来事・画業
1842年 江戸に生まれる(本名:後藤寅吉)。初代広重に入門。
1867年 三代目歌川広重を襲名。
1872年 鉄道開通に合わせ、多くの蒸気車図を描き人気を博す。
1877年 第1回内国勧業博覧会を描いた作品を発表。
1894年 死去。享年53。

他の絵師との関係

歌川広重(三世)は、同時代の浮世絵師たちとも切磋琢磨した。特に歌川国貞(三代豊国)の流れを汲む絵師や、明治の写実表現を追求した小林清親らと比較されることが多い。清親が光と影を用いた叙情的な風景を描いたのに対し、歌川広重(三世)はあくまで客観的な「記録」としての明るい色彩を重視した。また、葛飾北斎の影響を受けた大胆な構図も見られ、先人たちの遺産を継承しながら、新しい時代の西洋画のエッセンスを貪欲に吸収しようとする姿勢がうかがえる。このような雑多で力強い表現こそが、彼の真骨頂であったといえよう。