榎本武揚
榎本武揚(えのもと たけあき)は、幕末から明治時代にかけて活躍した武士、政治家、外交官、海軍軍人である。江戸幕府の海軍副総裁として戊辰戦争を戦い、箱館の五稜郭に拠って「蝦夷共和国」を樹立したが、敗北後は明治政府に出仕した。政府内では逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣などの要職を歴任し、日本の近代化と国際的地位の向上に大きく貢献した稀有な人物である。
生い立ちと海外留学
榎本武揚は天保7年(1836年)、江戸の下谷御徒町で幕臣・榎本武規の次男として生まれた。昌平坂学問所で儒学を学び、長崎海軍伝習所に入所してカッテンディーケらから船舶運用や砲術を学んだ。文久2年(1862年)には幕府の命を受け、オランダへ留学した。留学先では船舶工学、国際法、化学などを幅広く習得し、帰国後は幕府海軍の中核として最新鋭艦「開陽丸」の艦長に就任した。榎本武揚が欧州で学んだ万国公法などの知識は、後の箱館戦争における交渉や、明治以降の外交官としての活動において重要な礎となった。
戊辰戦争と箱館政権
慶応4年(1868年)、明治維新の混乱の中で徳川慶喜が恭順を示す一方、榎本武揚は旧幕府軍の艦隊を率いて江戸を脱出した。彼は北上を続け、蝦夷地(現在の北海道)を占領して箱館に独自の政権を樹立した。これは一般に「蝦夷共和国」と呼ばれ、榎本武揚は日本で初めて公選(入札)によって総裁に選ばれた。しかし、新政府軍の総攻撃により、盟友の土方歳三を失うなど戦況は悪化し、明治2年(1869年)の戊辰戦争終結とともに降伏した。
五稜郭の戦いと降伏
箱館戦争の拠点となったのは、フランス式の城郭である五稜郭であった。新政府軍の指揮官であった黒田清隆は、榎本武揚の類まれなる才能を惜しみ、降伏を勧告した。榎本武揚は自決を覚悟していたが、留学先から持ち帰った貴重な『海律全書』が戦火で失われるのを恐れ、これを黒田に贈った。このエピソードは、彼の学問に対する真摯な姿勢と、敵将をも動かす知性を示している。結果として黒田の尽力により、榎本武揚は一命を取り留め、数年の投獄生活を経て特赦された。
明治政府への出仕と外交
明治5年(1872年)に出獄した榎本武揚は、その高い能力を買われ、明治政府に登用された。当初は開拓使の官僚として北海道の資源調査に従事し、その後は特命全権公使としてロシアに赴任した。明治8年(1875年)には、国境問題を解決する「千島樺太交換条約」の調印を成功させるという大功を挙げた。これは、当時の脆弱な国力であった日本にとって、対等な立場で領土問題を解決した画期的な外交成果であった。また、清国公使としても活動し、東アジアの安定に努めた。
大臣職の歴任と近代化への貢献
帰国後の榎本武揚は、内閣制度の開始とともに数々の閣僚ポストを歴任した。彼の活動は多岐にわたり、以下の職務を通じて日本の近代化を推進した。
- 逓信大臣:郵便・電信制度の整備と海運業の育成。
- 文部大臣:教育制度の改革と実業教育の重視。
- 外務大臣:不平等条約の改正交渉への着手。
- 農商務大臣:鉱業法の整備や足尾銅山鉱毒事件への対応。
科学者としての横顔
榎本武揚は政治家であると同時に、化学や気象学に精通した科学者でもあった。日本化学会の初代会長を務め、工業の発展には科学的根拠が必要であると説いた。また、隕石から刀を造る「流星刀」の製作を命じるなど、技術に対する好奇心は生涯衰えなかった。彼の多才さは、江戸時代の幕臣としての教養と、西洋の最新科学を融合させたものであり、勝海舟らとともに、旧幕臣でありながら新時代をリードした代表的な人物として数えられる。
徳川慶喜との関係
榎本武揚は最後まで幕臣としての誇りを持ち続けたが、主君であった徳川慶喜に対しては複雑な思いを抱いていたとされる。鳥羽・伏見の戦いにおいて慶喜が江戸へ退却した際、榎本武揚は軍艦で慶喜を支えるつもりであったが、置き去りにされる形となった。しかし、明治以降も徳川家の名誉回復のために尽力し、旧幕臣の救済にも力を注いだ。彼の行動原理は常に「国家の利益」にあり、それは幕府のためでも明治政府のためでもなく、日本という国をいかに強く、文化的にするかに向けられていた。
榎本武揚の経歴まとめ
| 年次 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1862年 | 幕府の命によりオランダへ留学。国際法や化学を学ぶ。 |
| 1868年 | 海軍副総裁として旧幕府艦隊を率い脱走。箱館へ向かう。 |
| 1869年 | 五稜郭に降伏し投獄される。 |
| 1875年 | 駐露公使として千島樺太交換条約を締結。 |
| 1885年 | 第一次伊藤内閣で初代逓信大臣に就任。 |
| 1908年 | 慢性腎炎のため死去。享年72。 |
歴史的評価と晩年
明治41年(1908年)、榎本武揚はその激動の生涯を閉じた。かつての「朝敵」が大臣として天寿を全うしたことは、明治という時代の寛容さと、彼の能力がそれほどまでに不可欠であったことを物語っている。晩年は「殖民協会」を設立し、中南米への移民事業を推進するなど、日本の将来を見据えた活動を継続した。彼の墓所は東京都墨田区の吉祥寺にあり、現在も「多才なる万能人」として多くの歴史愛好家から敬愛されている。