梅津美治郎|帝国陸軍最後の参謀総長。降伏調印

梅津美治郎

梅津美治郎(うめづ よしじろう)は、日本の陸軍軍人であり、最終階級は陸軍大将である。大分県出身で、陸軍大学校を首席で卒業した「軍刀組」のエリートとして、主に参謀・軍政の道を歩んだ。第二次世界大戦末期には最後の参謀総長を務め、日本の敗戦に際して昭和天皇の命を受け、連合国に対する降伏文書に全権として調印した人物として知られる。冷静沈着で実務能力に長け、「堅物」と評される一方で、軍部の政治介入に対しては慎重な姿勢を保ち続けた。戦後は、極東国際軍事裁判においてA級戦犯として終身刑の判決を受け、服役中に病死した。

生い立ちと初期の軍歴

1882年(明治15年)、大分県中津市に生まれた。熊本陸軍地方幼年学校を経て、陸軍士官学校(15期)を卒業し、さらに陸軍大学校(23期)を首席で卒業した。同期には後にライバル関係ともなる永田鉄山や小畑敏四郎らがおり、彼らとともに「バーデン=バーデンの密約」に参加するなど、大日本帝国陸軍の革新派の一翼を担った。しかし、梅津自身は過激な政治行動を嫌い、組織の統制を重視する統制派の重鎮として、軍部内の秩序維持に力を注いだ。

二・二六事件と粛軍の断行

1936年(昭和11年)に発生した二・二六事件の際、梅津は陸軍次官として事態の収拾と、その後の「粛軍」に中心的な役割を果たした。皇道派の影響を排除し、軍内の規律を立て直すために徹底した人事刷新を行い、陸軍を一つの官僚機構として機能させることに腐心した。この時期の断固とした態度は、後に彼が「陸軍の後始末役」と呼ばれる所以の一つとなっている。また、宇垣一成の内閣組成を軍部として拒否するなど、軍の政治的発言力の維持にも関与した。

中国戦線と関東軍司令官

1935年(昭和10年)には支那駐屯軍司令官として「梅津・何応欽協定」を締結し、華北からの国民党軍撤退を実現させるなど、中国外交・軍事の最前線に立った。その後、1939年(昭和14年)の関東軍司令官就任に際しては、ノモンハン事件後の混乱を収拾し、対ソ備えの強化に尽力した。太平洋戦争が勃発してからも、精鋭とされる関東軍の戦力を維持・育成し続け、ソ連に対する抑止力として機能させたが、戦局の悪化に伴い、多くの兵力を南方や本土へ引き抜かれる苦境に立たされた。

参謀総長就任と終戦への道

1944年(昭和19年)、東條英機内閣の退陣後に、昭和天皇の強い希望により参謀総長に就任した。梅津は当初、敗色濃厚な戦況を鑑みて就任を固辞したが、最終的には拝命した。就任後は、戦力の立て直しを図るとともに、本土決戦(決号作戦)の準備を進めた。1945年(昭和20年)8月のポツダム宣言受諾をめぐる御前会議では、軍の面目と本土決戦の可能性を主張して阿南惟幾陸相とともに強硬な態度を示したが、最終的には天皇の聖断に従い、陸軍内の反乱(宮城事件など)を抑え込んで無条件降伏を完遂させた。

ミズーリ号での降伏調印

1945年9月2日、東京湾に停泊する米戦艦ミズーリ号上で行われた降伏文書調印式において、梅津は大本営全権として陸軍を代表し調印した。政府全権の重光葵とともに、日本の敗北を正式に認める歴史的な瞬間に立ち会った。本人はこの任務を屈辱的であるとして激しく拒絶したが、天皇からの直接の命により受諾したとされる。

梅津美治郎の主要経歴一覧

年(西暦) 主な役職・出来事
1911年 陸軍大学校を首席で卒業(23期)
1934年 支那駐屯軍司令官に就任
1936年 陸軍次官として二・二六事件の事後処理にあたる
1939年 関東軍司令官(後に総司令官)に就任
1940年 陸軍大将に昇進
1944年 参謀総長に就任
1945年 降伏文書に全権として調印

戦後の裁判と最期

敗戦後、太平洋戦争を指導した中心人物の一人としてGHQにより逮捕され、市ヶ谷で行われた東京裁判(極東国際軍事裁判)に引き出された。裁判中、梅津は自らの弁明をほとんど行わず、沈黙を守り続けた。1948年(昭和23年)、平和に対する罪などで終身刑の判決を受けたが、既に直腸癌に侵されており、翌1949年(昭和24年)1月8日、巣鴨プリズン内の病舎で死去した。享年66。死の間際、枕元には昭和天皇からの見舞いの品と、自らが調印に用いたペンが置かれていたという。

軍人としての評価

  • 冷静かつ合理的な思考を持ち、私欲を挟まない公的な性格であったとされる。
  • 軍事官僚としての能力は極めて高く、混迷する軍内部の統制において不可欠な存在であった。
  • 一方で、軍の政治介入を容認し、結果として戦争拡大を止められなかった責任も指摘されている。
  • 最期まで「組織の人間」として振る舞い、天皇への忠誠と組織の存続を第一に考えた典型的な帝国軍人であった。