李登輝(りとうき)|台湾の民主化と中台問題,親日派

李登輝

李登輝(1923ー)は第3代の台湾大統領で、台湾の民主化を進めた。1923年に台湾で生まれた李登輝は、日本の植民地時代に日本人としての教育を受けた。鈴木大拙や倉田百三など日本の思想家から大きな影響を受け、また『源氏物語』や『枕草子』などにも親しんだことで知られる。京都帝国大学を卒業後、台湾に戻り、台湾大学の教授になった。農業問題の専門家として認められ、国民党入党し、蒋経国総統に認められ副総統に就任し、総統となる。

副統裁

1978年、蒋介石の息子の蒋経国が総統に就任した。蒋経国は台湾の民主化を進めるため副統裁として李登輝を起用した。独裁体制にあった当時の台湾の政治制度において、後継者として選ばれたことを意味する。中国から来た外省人ではなく、台湾(元日本領土)出身の李登輝がその地位についたことで民主化が進められる。

李登輝

1988年、蒋経国総統が死去すると、副総統だった李登輝が総統に昇格した。本省人出身の総統が生まれ、台湾の民主化が決定的となる。

報道の自由

李登輝は、政治犯を釈放し、報道の自由を認めた。

野党

国民党に反対する野党の存在も認め、議会の正常化がなされた。ここで一党独裁体制が崩れる。

国民大会

台湾には、立法府として国民大会(国会)と立法院の二つあるが、立法院は法律を制定する機関で、国民大会は、憲法の制定と改定、総統・副総統の任命を決めることになる。国民大会の議員の任期は6年だが、台湾にいては、大陸での選挙ができるはずがなく、1947年1月に中国大陸で選ばれた後、永遠と任期の延長がなされ、万年議員と称されていた。彼らはすでに高齢のため、議場でも居眠り等が続き、批判が集まっていた。1991年4月、李登輝は、「任期満了」を宣言、同年12月、1942年、万年議員が全員退職した。その一方で、同月、台湾だけで選挙をして国民大会の議員を選び、この議員の選挙で、李登輝総統が選出された。

直接選挙

李登輝は従来の、議員が選挙をして統裁を選ぶ間接選挙から国民が直接投票する直接選挙に切り替え、1996年3月、台湾国民は直接自分たちの総統を選べる直接選挙が実施された。

中国の軍事圧力

1996年、直接選挙での総統選挙の実施に、中国政府が激しく反発した。台湾の独立国家としての振る舞いに中国はミサイル訓練を実施し、台湾の東と西の沖合にミサイルを発射、台湾海峡の大陸沿岸で、大規模な上陸演習も実施した。

アメリカの対応

アメリカは、中国の軍事圧力に、急きょ二隻の空母を台湾近海に派遣、中国軍を牽制した。

李登輝の圧勝

中国の軍事圧力に危機感をもった台湾国民は、李登輝の支持にまわった。それまで苦戦が伝えられていた李登輝であったが、中国の軍事圧力に反発した台湾住民は、李登輝総統のもとで団結をはかり、李登輝を圧勝させた。中国政府の脅しが裏目に出る形となった。総統の任期は4年で、2000年3月で任期が切れたが、李登輝は次の選挙に出ることなく政界を引退した。なお次の選挙では、野党であった陳水扁が当選する。

ドイツ「ドイチェ・ベレ」のインタビュー

1999年7月、ドイツの海外向け公共放送「ドイチェ・ベレ」のインタビューに応じた李登輝は、中国と台湾の関係について、「特殊な国と国との関係」であると発言し、中華民国(台湾)は1991年に憲法を修正して、憲法が通用する範囲を台湾に限定し、中華人民共和国の大陸での合法性を述べている。これは中国と台湾との関係を、中央と地方の関係、あるいは、ひとつの中国の内部の関係でもなく、特殊な国と国との関係であることを示し、すでに特殊な国と国との関係にあるため、独立を宣言する必要はない、との実質的な独立宣言であった。

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