朝鮮の儒教
朝鮮の儒教は、李氏朝鮮(1392–1910)において国家理念と学術体系の中核を占め、政治・教育・社会規範・外交認識までを貫く統治の骨格となった。高麗後期に優勢であった仏教勢力は抑制され、建国初期から朱子学が正統学として位置づけられ、法典「経国大典」や礼制の整備、官僚登用の科挙、国子監に相当する成均館の運営などを通じて制度化が進んだ。その影響は士大夫層の形成、村落規約(郷約)の普及、家礼・祭祀の定着、そして国際秩序の理解にまで及び、朝鮮社会の長期的な価値観を方向づけた。
成立と背景
高麗末の政治混乱と財政難は、仏教寺院の経済的特権が批判される土壌を生み、朱子学的秩序への志向を強めた。李成桂の建国後、王権は朱子学を国家理念として採用し、家族・官僚・村落・国家を貫く階層的秩序の中に徳治と法治を統合した。礼制の基礎には「朱子家礼」が据えられ、服喪・婚姻・祭祀など日常規範が制度と一体で運用された。
制度と教育
中央の成均館は経書講習と官僚養成の拠点であり、地方の書院・書堂は学問共同体と初等教育の場として機能した。官僚登用には科挙が用いられ、経義理解と文章技能が重視された。村落規約である郷約は、相互扶助・禁酒博奕・年中行事の標準化を掲げ、地方社会に儒教的規律を浸透させた。近世後期には書院の増加が租税と兵役の負担不均衡を招いたため、改革期に整理・撤廃が進められた。
身分秩序と日常倫理
社会の上層を占めた両班は、科挙資格と門地意識を併せ持つ士大夫身分であり、族譜編纂・宗祠運営・嫡長子相続を通じて家産と名望を継承した。女性には貞節と内助が強く求められ、再婚規制や喪服規定などが家礼により明文化された。祭祀は祖先敬重の中心的実践で、家門の正統性と道徳の可視化に資した。
政治運営と党争
王権を補佐しつつ諫争する士林の政治参加は、しばしば理念対立や人事をめぐる党争を生んだ。初期の勲旧と士林の緊張、士禍を経て、近世には以下のような派閥推移がみられる。
- 東人・西人
- 南人・北人
- 老論・少論
派閥は礼制・外交・人事の論争を通じて均衡と偏倚を繰り返し、学統の維持と政治参加の規範を同時に形成した。
知の展開と実学
17〜18世紀には、農政・商工・度量衡・地理・法制に関する「実学」が勃興した。丁若鏞や李瀷、朴趾源らは、古典理解に基づく制度刷新や産業振興を構想し、対外情報の収集と内政改革を結び付けた。他方で、天主教受容は祭祀観の相違を露呈し、信仰と家礼の整合性をめぐる論争と弾圧を引き起こした。
対外認識と冊封秩序
外交は華夷秩序の枠内で運営され、明・清への朝貢と冊封を通じて国際儀礼を共有した。対中認識は「小中華」意識を伴い、明滅亡後も礼服・文物の継承に価値を見いだした。国際秩序の理解は、清の周辺統治(理藩院や改土帰流)と性格を異にしつつ、宗族・礼制中心の自国モデルを保持した。概念上は宗主国と属国の枠組みで表現され、19世紀末には列強の干渉のなかで日本による保護国化(1905)が進み、伝統秩序は大きく動揺した。東アジア全体の力学は、清の変容やロシア・日本の進出を含む清朝と東アジアの再編成と連動していた。
近代転換と遺産
甲午改革を契機に科挙廃止・身分制緩和・学校制度の近代化が進み、儒教的秩序は制度面で後退した。しかし、家族中心の倫理、教育重視、文書主義、地域共同体の規範は、近代社会の行政・教育・生活文化に連続性を与えた。すなわち、朝鮮の儒教は政治制度の枠を越え、社会を貫く価値体系として長期的な影響を及ぼした。
補足:主要用語
朱子学:宋代の朱熹により体系化された理気論的学説。/ 郷約:村落規約。互助・教化・自治のルール。/ 朱子家礼:婚喪祭礼の実践手引。/ 成均館:最高学府・儒官養成機関。これらは朝鮮儒教の制度化を支えた中核概念である。