朝鮮の仏教
朝鮮の仏教は、4世紀末に三国へ受容され、統一新羅で国家理念として成熟し、高麗で教禅一致の大系を築いたのち、李氏朝鮮では朱子学の台頭により抑圧と再編を経験した宗教である。寺院・戒律・教理・儀礼は時代ごとに姿を変えつつ、政治権力・在地社会・巫俗との交渉を通じて固有の展開を示した。石窟庵や仏国寺にみられる造形美、高麗大蔵経に結晶する経典信仰、そして禅的修行の重視は、その連続と変容を示す象徴である。
受容の始まり(高句麗・百済・新羅)
仏教は372年、高句麗の小獣林王の時に前秦から伝わったとされ、国家祭祀と結びつきつつ受容が進んだ。百済には384年に東晋の僧摩羅難陀が来朝したと伝え、王権は仏教を文明秩序の象徴として保護した。新羅では6世紀に受容が本格化し、法興王の代に公認(527年または528年)されたとされる。三国はいずれも王権強化の理念資源として仏教を位置づけ、寺院建立や僧尼統制を整えた。外来経典は土着信仰と交渉し、護国・延命・現世利益の祈祷と学問的注釈が並行して展開した。
統一新羅の仏教と学僧の活動
統一新羅期には、国家仏教として華厳思想が重んじられ、元暁と義湘が中心となって教理的基礎を整えた。やがて禅の潮流が浸透し、「新羅九山」と総称される諸禅門が成立して坐禅修行が広まった。王権は戒壇の設置や度牒の発給を通じて僧団を統合し、都市と山林の寺院は経蔵・講堂・塔婆を備えた宗教複合体として機能した。花郎に象徴される青年団も、仏教倫理を通じて規範意識を涵養し、社会統合の枠組みを補完した。
高麗仏教の展開と高麗大蔵経
高麗は仏教を王権の正統性と国難克服の拠り所とし、教(経論)と禅(実践)を調和させる教禅一致の理念が整えられた。蒙古襲来期には、国家的護国事業として高麗八万大蔵経が再彫され(1237〜1251年)、精緻な木版本は経典信仰・写刻技術・国家動員の総合成果であった。王師・国師の制度は王権と僧団の結節点となり、山寺は経典読誦・水陸斎・施餓鬼などの法会を組織して社会救済機能を担った。他方で、荘園経営や度数の増大は僧団の肥大化を招き、後世の抑制政策の伏線ともなった。
李氏朝鮮における抑圧と再編
1392年の開国後、朱子学が国家理念となり、仏教は出京禁止や寺数削減で山林化した。僧尼は両班社会から距離を置かれ、都市宗教から山寺の修行・祈祷へ比重が移った。とはいえ仏教は完全には衰退せず、国家儀礼の補助や民衆信仰の祈祷機能を保持した。壬辰倭乱(1592年)では義僧軍が組織され、地域防衛で一定の役割を果たした。近世には禅林の再興と戒律の整備が進み、経蔵と講学の伝統は細いながらも継承された。
近代以降:植民地期から現代の宗団まで
19世紀末の開化・条約体制の下で佛寺行政は再編され、日本統治期(1910〜1945年)には宗団制度や寺刹令が導入されて近代的宗教団体へ再構築が試みられた。解放後、北朝鮮では宗教統制のもとで限定的存続が図られ、韓国では都市化と共に寺院の社会的役割が再評価された。曹渓宗が主流宗団として布教・教育・社会福祉に取り組み、在家信者の参加が拡大した。仏国寺・石窟庵などはUNESCO世界遺産となり、文化遺産としての関心も高まっている。
思想・儀礼・空間の特徴
- 思想:華厳・天台・禅の止観と実践を統合し、教禅一致の理念を育んだ。
- 儀礼:護国・追善・斎会・水陸法会など、国家・共同体・家族に跨る祈祷体系を備えた。
- 空間:都城寺院から山寺へ、さらに近代の都市寺院へと、政治・社会の変化に応じて中心が移動した。
- テキスト:木版本の高麗大蔵経は経典学・版木技術・国家動員の総合成果として特筆される。