政府栽培制度
政府栽培制度は、19世紀前半のオランダ領東インドにおいて、オランダ本国政府がジャワ島の農民に輸出向け商品作物の栽培を強制した植民地経済政策である。ジャワ島の村落に対し、土地と労働の一定割合をコーヒーやサトウキビなどの換金作物に充てさせ、その収穫物を政府が低価格で買い上げ、高値で欧州市場に販売することで莫大な利益をあげた制度であり、日本語では「強制栽培制度」とも呼ばれる。
成立の背景
政府栽培制度は、ナポレオン戦争後のオランダ財政再建という事情のもとで構想された。19世紀初頭、旧東インド会社の統治を引き継いだオランダ政府は、戦争や行政改革により財政赤字を抱え、植民地からの安定した収入源を求めていた。ジャワ島では既に砂糖やコーヒーの商品作物栽培が進み、港湾都市バタヴィアを中心に交易拠点が整備されていたが、従来の地租中心の税制では本国が期待するほどの収益をあげられなかった。さらに、19世紀前半にはジャワ戦争やディポネゴロの反乱などが続き、軍事費と統治コストが膨らんでいたため、統治秩序の再建と財源確保を兼ねた新しい植民地政策として制度化されたのである。
制度の仕組み
政府栽培制度の基本原理は、村落共同体単位で土地と労働を政府指定の作物栽培に振り向けさせ、その収穫を政府が独占的に買い上げるという点にあった。一般に、村の耕地のおよそ5分の1を政府栽培地とし、その土地では自給用の米ではなく輸出用作物を栽培させたとされる。村の首長は割当量の達成に責任を負い、農民は現地官僚や首長の監督のもとで労働を提供した。この仕組みは、現物納税と労働奉仕を組み合わせた形態であり、植民地支配者から見れば徴税と生産の両方を同時に管理できる効率的な制度であった。
栽培された商品作物
- 高地での栽培が適したコーヒーは、ヨーロッパ市場で高値で取引され、ジャワ産コーヒーとして知られた。
- 低地の灌漑地ではサトウキビが栽培され、砂糖はオランダ本国の重要な輸出品となった。
- 一部地域では藍やタバコなどの作物も指定され、地域ごとの自然条件に応じて作付計画が調整された。
これらの商品作物は、植民地港からヨーロッパへと輸送され、オランダ政府は差益を「植民地収入」として本国財政に組み入れた。
ジャワ社会への影響
政府栽培制度はジャワの農村社会に大きな影響を与えた。農民は自給用のコメ作りに充てるはずの土地や労働を商品作物に振り向けざるをえず、天候不順や市場価格の変動が重なると食糧不足や飢饉の危険が高まった。首長や地方官吏は割当達成を優先して農民を酷使し、ときに過酷な徴発や不正を行ったと伝えられる。一方で、輸送や灌漑の整備により道路や水路が建設され、植民地インフラの整備が進んだ側面もあった。しかし、その恩恵は不均等であり、多くの農民にとって制度は負担として意識された。
オランダ本国への影響
政府栽培制度の下で得られた植民地収入は、19世紀中葉のオランダ財政を大きく支えた。商品作物の輸出から得た利益は、国内の鉄道建設や産業投資、国債償還などにも用いられ、オランダの近代化を後押ししたと評価される。この点で、制度は本国中心の利益配分構造を典型的に示すものであり、同時代のインド帝国や他のヨーロッパ列強による植民地支配と同様、周辺地域の資源と労働を本国の発展のために動員する仕組みであった。
批判と廃止、自由主義政策への移行
19世紀後半に入ると、オランダ国内では政府栽培制度に対する批判が強まった。人道的観点から農民の窮状を告発する声に加え、市場原理を重視する自由主義的な政治家や実業家は、国家独占ではなく民間資本による開放的な経営を主張した。特に、文学作品『マックス・ハーフェラール』はジャワ農民の苦境を描き、世論の注目を集めた。その結果、1870年前後から制度は段階的に縮小され、民間プランテーションを認めるいわゆる「自由主義政策」が採用された。こうしてジャワ経済は、国家主導の栽培制度から民間企業主導のプランテーション経済へと移行していくことになる。
東南アジア植民地史の中での位置づけ
政府栽培制度は、19世紀の東南アジアの植民地化の流れの中で、オランダがジャワ島を「現金を生む植民地」として位置づけた象徴的な制度である。同時期、イギリスはインド統治を拡大し、重税や軍事的圧迫への反発からセポイの乱が生じ、のちのインド帝国の樹立へとつながった。ジャワにおける栽培制度も、こうした植民地支配への抵抗やナショナリズムの芽生えと無縁ではなく、のちのインドネシア民族運動が台頭する際の歴史的背景の一部をなしている。近年の研究では、ジャワ農民社会の主体性や地域ごとの対応の差異に注目しつつ、制度を単なる搾取装置としてだけでなく、植民地国家と現地社会の相互作用の場として捉え直す試みが進んでいる。