張陵
張陵は、東漢後期に成立した宗教運動「五斗米道」(のちの天師道)の創始者として知られる人物である。史料では本名を張陵、受籙(授箓)以後の尊称を「張道陵」と伝え、のちに「初代天師」と称された。西暦142年、四川の鶴鳴山(青城山周辺)で老子から正統の法を授かったという伝承が広まり、符籙・斎戒・請過(罪の告白)・治病祈祷を軸に共同体を組織した。信徒は五斗の米を納めて運営を支え、祭酒と呼ばれる地方リーダーを置く制度化が進んだ。孫の張魯が漢中で政権化する下地は、すでに張陵の段階で形成されていたと考えられる。五斗米道はやがて「天師道」と総称され、後世の正一道へ連なる教団の原型となった。
生涯と背景
張陵の出自や没年は確定的ではないが、東漢中期の知識人層に通じ、方術・医術・道家思想に明るかったとされる。伝承では蜀に入って隠棲し、山中において神授を受けて教団の規範を整えたという。彼が志向したのは、血縁や郷里に依存しない信徒共同体であり、祈祷・医療・相互扶助を通じて地域社会に浸透する宗教的秩序の樹立であった。東漢政権が揺らぎ社会不安が増すなか、清浄や節制を重んじる道教的倫理は、人々の心身の護持とコミュニティ運営をめざす実践と結び付いたのである。
教団制度と教義
張陵の教団は、五斗の米の納入をもって信徒の加入・維持を可視化し、地域には「治」と呼ばれる単位を編制して祭酒を配置した。教義上は、符籙の授与、斎戒・清浄の励行、過失の告白と赦免(請過)、病患に対する祈祷・治療を正統の法として位置付けた。信徒は定期的に集会し、共同の規範に違反した者には教内での処分や科料が課され、再入信には儀式的な手続を伴った。これらは宗教と社会規範の連動を意図した制度であり、後世の天師道・正一道に継承される仕組みの原型であった。
「張道陵」という呼称
受籙後に用いられる「張道陵」は、道(タオ)の法を体得したことを示す尊称である。のちの文献では「張天師」とも記され、天師家は教統の継承を公的に担う家系として整備された。宋以降、正一法脈は江南の龍虎山に拠点を置き、朝廷から道教領袖としての地位を認められることが多かった。こうした長期的な制度的権威の出発点に、創始者張陵の名が置かれている。
張魯と漢中政権
宗教共同体を政治的権力へと拡張したのは孫の張魯である。張魯は漢中において教団組織を行政化し、義舎(宿泊と施食)などの公益施設を備えて信徒を糾合した。これは、信仰・救済・行政が一体化した准国家的な実験であり、のちに曹操に帰順するまで地域秩序を維持した。張魯体制の社会的基盤は、すでに張陵の段階で整えられた儀礼・規範・徴収の枠組みに負うところが大きい。
史料と伝承の交錯
張陵に関する一次的な同時代記録は限られ、『後漢書』や『三国志』の関連章、および道教典籍や霊験譚が相互に補い合うかたちで像が結ばれてきた。史学上は、儀礼・組織・地域展開といった可視的側面を軸に復元が試みられ、超自然的授記や神仙化の記述は伝承的層として扱われることが多い。とはいえ、治病・請過・共同扶助を統合した制度宗教を東漢期に組み上げたという点で、彼の革新性は疑いない。
用語解説:五斗米の意味
五斗米は、入信税・運営資源・互助基金の三機能を兼ねた実務的な仕組みである。単なる信仰の証ではなく、共同体の財政基盤を可視化し、救貧・療治・祭儀の費用を賄う制度的工夫であった。名称としての「五斗米道」は、この財政=信仰の連動を象徴している。
信仰実践の具体
- 病患に対する祈祷と治療(医薬と儀礼の併用)
- 過失の告白と赦免(請過)による倫理再統合
- 符籙・護符の授与と携帯
- 斎戒・清浄の励行、共同の規範遵守
同時代運動との比較的位相
東漢末には、同時代の宗教運動として太平道が台頭し、指導者張角の挙兵は黄巾の乱として帝国秩序を揺るがした。これに対し五斗米道(すなわち天師道)は、地方共同体の制度化に重心を置き、徴収・祭酒・請過といった仕組みで内側から社会を再編した点に特色がある。東漢の再建を主導した光武帝や劉秀の時代に整った政治枠組みが後退し、王莽の新政からの反動や赤眉の乱などの動乱を経て、洛陽を中心とする帝都秩序洛陽が疲弊すると、民間宗教の受容土壌がさらに拡大したという視座も成り立つ。こうした広い歴史的文脈のなかで、創始者張陵の制度設計は、東アジア宗教史に長い影を落とし続けたのである。