延勝寺|六勝寺最後を飾る近衛天皇の御願寺

延勝寺

延勝寺(えんしょうじ)は、平安時代末期の院政期において、現在の京都府京都市左京区岡崎の地に建立された勅願寺である。白河天皇をはじめとする歴代天皇や中宮の発願によって建てられた「六勝寺」の一つであり、その中でも最後に完成した寺院として知られる。第76代近衛天皇の御願寺であり、久安5年(1149年)に落慶供養が行われた。造営には平清盛の父である平忠盛が深く関与しており、当時の武家勢力と朝廷の結びつきを示す象徴的な建築物でもあった。しかし、中世以降の戦乱や火災により衰退し、応仁の乱を経て廃絶に至った。現在はその跡地に石碑が残るのみであるが、平安京の仏教文化や院政期の政治構造を理解する上で重要な史跡である。

創建と造営の経緯

延勝寺の建立は、近衛天皇が数え年11歳の時に発願されたことに始まる。建立の地には、すでに白河天皇による法勝寺を筆頭とする「勝」の字を冠する寺院が立ち並んでおり、白河・岡崎一帯は「白河の地」として宗教的な中心地となっていた。延勝寺の造営にあたっては、受領階級として台頭していた平忠盛が造延勝寺長官に任命され、実質的な工事の指揮を執った。忠盛は、この造営功労により正四位上に昇進するなど、平氏一門が中央政界で確固たる地位を築く足がかりとなった。久安5年(1149年)5月には盛大な落慶供養が営まれ、多くの公卿や僧侶が参列した記録が残っている。これにより、白河天皇から続く六勝寺の造営事業は一つの区切りを迎えることとなった。

伽藍の規模と建築的特徴

延勝寺の境内は、東西2町(約220メートル)、南北1町(約110メートル)の広大な敷地を有していた。主要な建物として、本尊を安置する金堂のほか、高さ数丈に及ぶ多宝塔、一字金輪堂などが配されていた。特に長寛元年(1163年)には、近衛天皇がかつて居住していた寝殿を寺内に移築し、「九体阿弥陀堂」として整備されたことが知られている。これは阿弥陀如来像を9体並べて安置する形式であり、当時の極楽往生を願う浄土信仰の隆盛を反映したものであった。発掘調査の結果からは、精巧な瓦や基壇の跡が見つかっており、白河の地にふさわしい荘厳な寺容を誇っていたことが推測される。

六勝寺における構成

延勝寺を含む六勝寺は、いずれも天皇や中宮が自らの後生を弔うために建立した御願寺であり、平安京の東郊に集中して建設された。これらの寺院は互いに近接しており、白河の地を一大寺院街へと変貌させた。六勝寺の各寺院と発願者は以下の通りである。

寺院名 発願者(天皇・皇族) 建立年
法勝寺 白河天皇 1077年
尊勝寺 堀河天皇 1102年
最勝寺 鳥羽天皇 1118年
円勝寺 待賢門院(鳥羽天皇中宮) 1128年
成勝寺 崇徳天皇 1139年
延勝寺 近衛天皇 1149年

衰退と廃絶の道のり

平安時代末期から鎌倉時代にかけて、延勝寺はたびたび自然災害や失火に見舞われた。承久元年(1219年)には、隣接する白河殿付近から発生した火災が延焼し、金堂や多宝塔を含む主要な伽藍が焼失した。その後、一部の建物は再建されたものの、朝廷の財政難や武士の台頭による院政の弱体化に伴い、かつての規模を維持することは困難となった。さらに、室町時代の15世紀後半に勃発した応仁の乱により、白河一帯は激しい戦場となり、延勝寺も完全に破壊された。これ以降、寺院としての機能は失われ、江戸時代には耕作地や屋敷地へと姿を変えていった。

現代の状況と史跡

現代において、延勝寺の旧境内地は「京都市勧業館(みやこめっせ)」やその周辺の道路となっている。かつての壮麗な伽藍を直接目にすることはできないが、歴史を記憶にとどめるための取り組みが行われている。現在の跡地付近には以下のものが設置されている。

  • 京都市勧業館の北西角に立つ「延勝寺跡」の石碑
  • 琵琶湖疏水沿い、二条通付近に設置された案内板
  • 発掘調査により出土した瓦や土器の資料(京都市埋蔵文化財研究所等で保管)
  • 近隣の平安神宮や岡崎公園一帯に広がる六勝寺全体の歴史解説碑

発掘調査の成果

近年の都市開発に伴う発掘調査では、延勝寺の金堂跡や池の遺構が確認されている。これにより、文献資料に記されていた寺院の正確な位置や規模が考古学的にも裏付けられた。また、出土した装飾瓦の意匠から、当時の最高水準の建築技術が投入されていたことが判明しており、平氏が担った造営事業の質の高さが改めて評価されている。これらの成果は、平安時代の都市計画や宗教施設の配置を研究する上での貴重な資料となっている。

歴史的意義

延勝寺の存在は、単なる宗教施設にとどまらず、当時の政治体制と密接に結びついていた。御願寺の造営は天皇の権威を示す一大プロジェクトであり、その成功は経済力と組織力の証明でもあった。また、造営を通じて武士である平氏が朝廷内での発言力を強めたことは、その後の平氏政権樹立への伏線となった。延勝寺の歴史は、院政期の華やかな仏教文化と、それが武家社会へと移行していく過渡期の動乱を象徴している。六勝寺の掉尾を飾る寺院として、その興亡は日本の文化史において無視できない足跡を残している。

  1. 延勝寺は、院政期における天皇の権威を示す象徴的な建築物であった。
  2. 平氏一門が造営を主導したことで、武士の政治的地位向上に寄与した。
  3. 浄土信仰の影響を強く受けた九体阿弥陀堂などの建築美を誇った。
  4. 現在は岡崎の地に石碑を残すのみだが、発掘調査によりその実態が解明されつつある。

「久安五年五月、近衛院御願延勝寺供養。長官平忠盛、その功によりて正四位上に叙さる。」(中世史料要旨)