幾何原本|ユークリッド幾何を中国にもたらす

幾何原本

明末の知識人幾何原本は、イエズス会士が伝えた西洋数学の到達点『原論』の中核を中文で示した書である。とりわけ1607年、利瑪竇と徐光啓が協力して第1巻〜第6巻を訳出・刊行し、点・直線・面の定義、公理(共通概念)と公準、命題と証明の手順を厳密に配列した構成を中国語の語法に置き換えた。書名に冠された「幾何」は図形と量の学を意味し、実測や算術の伝統に強かった東アジアの学術に、公理論的に積み上げる思考法を導入した点で大きな意義をもつ。背景には天文暦算や測量・築城など実務上の需要があり、証明重視の記述は理学的修辞とも響き合って受容された。基礎概念の可視化と命題の体系化は、のちの数学・物理の導入に橋を架け、実学・器用の文脈でも影響力を持続させた。

成立と歴史的背景

刊行は万暦年間であり、長年の交友と学問交流から生まれた協同作業であった。イエズス会は布教とともに天文・数学・測地の技術を携え、朝貢・書籍交流・西法器具の紹介を通じて知の翻訳を推進した。徐光啓は農政・暦算・兵事に関心が深く、証明と演繹にも価値を見出したため、幾何原本は実用と理論の両面から注目された。

構成と内容

  • 第1巻:定義・公理・公準、基本作図、三角形の合同、平行線など。
  • 第2巻:図形による代数(長さ・面積の関係の等式化)。
  • 第3巻:円の性質(接線・弧・角・弦)。
  • 第4巻:正多角形の作図と性質。
  • 第5巻:比と比例(エウドクソスの理論)による一般量の扱い。
  • 第6巻:相似と比例の応用、面積比の議論。

訳語・表現と方法

幾何原本は「点」「直線」「面」「角」「円」「比」「比例」などの用語を整え、図と文を密接に連携させる。命題は「已知」「所求」「作図」「証明」の骨格を保ち、定義と公理からの演繹を徹底した。こうした手順は、命題の順序性と依存関係を明示し、結論の普遍性を保証する。図形中心の思考は実地の測量・築城・機械設計にも接続し、理と器の往還を可能にした。

西方古典との接点

底本は古代ギリシアの数学者エウクレイデス(ユークリッド)の『原論』であり、その形成はヘレニズム期の学術制度に根差す。さらに中世イスラーム世界の学統を経て、代数学や算法の整理者フワーリズミー、三次方程式や暦改革で知られるウマル=ハイヤームなどが保持・発展させた学知がラテン圏へ再流入し、近世ヨーロッパで再統合された成果が東アジアに到った。

受容と影響

幾何原本は士大夫の学統においては理の厳密な把握法として、手工業・測量・築城では実務の理論基盤として読まれた。幾何作図の精密さは日影測量や地積計算の精度向上に寄与し、比例論は秤量・機械・水利の設計思想を支えた。また、証明の提示順序や矛盾法の導入は議論の作法を洗練させ、学問記述の文体にも影響を与えた。

近代科学への連結

『原論』の公理的構築は、初等的な図形だけでなく力学・光学の数理化にも貢献した。たとえば望遠鏡観測と実験を通じて自然記述を数学化したガリレオ・ガリレイの方法論、空間をユークリッド的に前提する古典力学の体系化としてのニュートン力学などは、定義と公理から命題を積む技法の延長線上に理解できる。東アジアにおいても、幾何・代数・天文学の学習順序が再編され、実測知と演繹知の接合が進んだ。

テクストの伝来・増補

幾何原本は再版・増補を経て流布し、注解や作図器具の改良とともに読まれた。比と比例の章は算学の伝統とも親和し、面積・体積の測度は度量衡の議論と結びついた。各命題は作図のアルゴリズムとしても有用で、教育現場では順序立てた学習課程の設計に資した。

関連項目と基礎概念

図形概念は幾何の入口である。点・線・面・角・合同・相似などの語彙は、定義に立ち返るほど理解が深まる。基本語の整理には図形の項目が役立つ。歴史的展望はヘレニズム、人物伝はエウクレイデス、科学革命の位相はガリレオ・ガリレイ、数理の拡張はフワーリズミーウマル=ハイヤーム、古典力学の体系はニュートン力学を参照すると、幾何原本の位置が立体的に見通せる。