岡田山一号墳
岡田山一号墳(おかだやまいちごうふん)は、島根県松江市大草町に位置する古墳時代後期の古墳である。島根県東部の意宇平野を見下ろす丘陵上に築かれた、全長約24メートルの前方後方墳であり、岡田山古墳群を構成する一基として知られている。大正4年(1915年)の道路工事中に偶然発見されたこの古墳は、小規模ながらも極めて重要な副葬品を伴っており、特に出土した銀象嵌銘文を有する大刀は、日本古代史における氏姓制度や部民制の成立過程を考察する上で欠かせない一級の史料となっている。現在、古墳周辺は「八雲立つ風土記の丘」として整備されており、国の史跡に指定されている。
歴史的背景と概要
岡田山一号墳が築造されたのは6世紀後半と推定されている。この時期は、畿内の大和王権が地方への支配力を強め、官職や地位を世襲化させる氏姓制度が整えられつつあった時代である。出雲国においては、古くから独自の文化圏が形成されていたが、この古墳の出現は、地方の有力豪族が中央の政権と密接な関係を持ち、政治的な秩序の中に組み込まれていたことを象徴している。墳丘は2段に築かれ、斜面には葺石が施されるなど、当時の最新の土木技術が導入されていたことがうかがえる。
出土遺物と「額田部臣」銘大刀
石室内からは多種多様な副葬品が発見されたが、最も著名なのが「額田部臣(ぬかたべのおみ)」という文字が刻まれた円頭大刀である。1983年の保存修理作業に伴うX線撮影により、刀身の棟の部分に銀象嵌で12文字の銘文があることが判明した。判読可能な文字は「各田卩臣(額田部臣)……大利……」であり、これは被葬者が「額田部」という部民を管理する「臣(おみ)」のカバネを持つ人物であったことを示している。この発見により、岡田山一号墳は、中央の王権から地方の豪族に対して官位や役割が与えられていた実態を証明する極めて希少な事例となった。
| 主な出土品 | 詳細・特徴 |
|---|---|
| 銀象嵌銘大刀 | 「額田部臣」の銘文が刻まれた鉄製の大刀。 |
| 内行花文鏡 | 「長宜子孫」の銘文がある中国製または模造鏡。 |
| 馬具類 | 三葉環頭大刀の柄頭、轡、辻金具などの豪華な装具。 |
| 須恵器・土師器 | 祭祀に使用されたとされる多様な土器類。 |
墳丘構造と内部主体
岡田山一号墳の構造は、前方部が未発達な前方後方墳であり、後方部に横穴式石室が設けられている。石室は全長約5.6メートル、幅約2メートルで、地元の自然石や割石を精巧に積み上げて造られている。石室内には家形石棺と組み合せ式の箱式石棺が1基ずつ安置されており、複数の埋葬が行われたと考えられている。前方部の前面には「造出(つくりだし)」と呼ばれる特殊な平坦面が存在し、そこからは子持壺などの祭祀用土器や埴輪が多数出土している。これは、被葬者の葬送儀礼が墳丘上で行われていたことを示す重要な痕跡である。
額田部氏とヤマト王権の関係
銘文に見える「額田部」は、古代日本において王族や豪族の生活を支えるために組織された部民制の一つである。特に「額田部」は、競走馬の育成や軍事、あるいは王宮の供奉などに関わった部民であるとする説が有力である。この銘文大刀を佩用していた人物が岡田山一号墳に葬られたということは、出雲の地に拠点を置く有力者が、中央の王権から正式に「額田部」の管理を委ねられ、地域社会のリーダーとして君臨していたことを裏付けている。これは、単なる武力の保持だけでなく、中央との法的な契約関係に基づく統治が行われていたことを意味する。
保存状況と周辺環境
発掘された遺物の多くは、現在は重要文化財に指定され、島根県立八雲立つ風土記の丘の展示学習館にて厳重に保管・展示されている。特に銘文大刀は、日本の国宝級の価値を持つものとして、古代史研究の基礎資料として広く活用されている。古墳自体も、後世の改変を最小限に抑えた形で現地保存されており、周囲の自然景観とともに当時の面影を今に伝えている。岡田山一号墳を含む意宇平野の一帯は、出雲国府や国分寺が置かれた古代出雲の中枢地であり、歴史散策の拠点としても高い評価を得ている。
- 出土した大刀の銘文は、日本で発見された象嵌銘文大刀の中でも非常に古い部類に属する。
- 墳丘には円筒埴輪が並べられており、当時の王権が定めた葬儀様式を忠実に守っている。
- 石室内からは金銅製の丸玉や耳環などの装身具も出土し、被葬者の富の豊かさを物語っている。
- 近隣の岡田山二号墳は円墳であり、一号墳とは異なる時期や系統の埋葬者の可能性が指摘されている。
考古学的意義と評価
岡田山一号墳の意義は、文字史料が極めて少ない6世紀後半において、同時代の金石文を提示した点にある。それまで『日本書紀』や『古事記』などの文献上の記録に頼らざるを得なかった部民制や氏姓制の実態が、実際の出土品によって物的証拠として裏付けられた影響は大きい。考古学と文献史学を繋ぐ架け橋としての役割を果たしており、日本の国家形成期を解明する上で、一地方の古墳の枠を超えた普遍的な価値を有している。また、須恵器などの伴出遺物による年代測定の精度向上にも大きく寄与した。