宇垣一成
宇垣一成(うがき かずしげ、1868年6月11日 – 1956年4月30日)は、日本の近代史において大きな足跡を残した陸軍軍人であり、政治家である。最終階級は陸軍大将に昇り、清浦、加藤高明、若槻、浜口の各内閣で陸軍大臣を務めたほか、朝鮮総督や外務大臣、拓務大臣といった要職を歴任した。特に大正末期から昭和初期にかけて行われた軍備縮小、いわゆる「宇垣軍縮」の断行者として知られ、軍の近代化と合理化を推進した人物である。また、戦後は公職追放を経て国政に復帰し、参議院議員としても活動した。宇垣一成の生涯は、軍部と政党政治が交錯する激動の時代を象徴しており、その政治的手腕と軍内での影響力は「宇垣閥」と称される巨大な勢力を形成するに至った。
初期の経歴と陸軍における台頭
宇垣一成は、慶応4年(1868年)に備前国磐梨郡大内村(現在の岡山県岡山市東区)で農家の五男として生まれた。当初は教育者を志し、小学校の代用教員を務めていた時期もあったが、後に軍人への道を志して上京し、陸軍士官学校および陸軍大学校を卒業した。日露戦争では後備第1師団参謀として出征し、その後はドイツ留学を経て軍政の中枢へと進んでいった。宇垣一成は、長州閥の流れを汲む田中義一の側近として頭角を現し、参謀本部第1部長、陸軍次官などを歴任しながら、軍内部での地位を盤石なものとした。明治から大正へと時代が移り変わる中で、彼は実務能力と政治的センスを高く評価され、将来の陸軍を担う指導者として期待されるようになった。
陸軍大臣就任と宇垣軍縮の断行
1924年(大正13年)、宇垣一成は清浦内閣の陸相として入閣し、続く加藤高明内閣、若槻礼次郎内閣でも留任して軍政のトップとして君臨した。この時期、第一次世界大戦後の国際的な軍縮ムードの中で、彼は「宇垣軍縮」と呼ばれる大胆な改革を断行した。これは、4個師団(約3万4千人)を廃止する一方で、浮いた予算を軍の近代化、具体的には戦車部隊や航空部隊の新設、さらには学校教練の導入などに充てるという内容であった。宇垣一成によるこの改革は、単なる規模縮小ではなく、近代戦に対応できる軍組織への再編を目的としていたが、同時に多くの将校が整理対象となったことで、軍内部には深刻な不満と対立の火種を残すこととなった。
朝鮮総督としての統治と開発
宇垣一成は1931年(昭和6年)から1936年(昭和11年)にかけて、朝鮮総督として現地統治を指揮した。彼の統治方針は「内鮮一体」を掲げつつ、経済的な振興に重きを置くものであった。農村振興運動を展開して疲弊した農村の立て直しを図るとともに、北朝鮮地域における水力発電所の建設や重化学工業の育成を推進し、朝鮮半島の近代化に大きく寄与した。宇垣一成によるこれらの政策は、後の朝鮮半島の産業基盤に影響を与えることとなった。しかし、その一方で皇民化教育の推進など、植民地支配としての側面も併せ持っており、その歴史的評価については多角的な視点から議論されている。
三月事件と軍部内での孤立
宇垣一成の政治的キャリアにおいて、大きな影を落としたのが1931年に計画された「三月事件」である。これは、陸軍の中堅幹部らが政党内閣を打倒し、宇垣一成を首班とする軍部政権を樹立しようとしたクーデター未遂事件であった。宇垣一成自身は最終的にこの計画を拒絶したが、事件に関与した疑いや計画を黙認していた姿勢が問題視された。これにより、彼は陸軍内部の過激派(後の皇道派など)から「現状維持的である」と批判されるようになり、一方で政党側からも警戒されることとなった。宇垣一成はこの事件を境に、陸軍内での絶対的な求心力を徐々に失い、後の組閣挫折へと繋がる伏線となっていく。
幻の宇垣内閣と軍部の抵抗
1937年(昭和12年)、広田内閣の総辞職を受けて、天皇から宇垣一成に対して組閣の大命が下った。国民からは安定した強力な内閣を期待する声が強かったが、彼を「軍縮の元凶」として忌み嫌う陸軍主流派は、陸相の推薦を拒否するという手段に出た。当時の「陸海軍大臣現役武官制」を盾に取ったこの組織的抵抗により、宇垣一成は内閣を組織することができず、大命を拝辞せざるを得なかった。この「宇垣流産内閣」と呼ばれる出来事は、軍部が自らの意に沿わない政治勢力を排除する力を持ち、内閣の死命を制するようになったことを象徴する歴史的事件として刻まれている。
近衛内閣での閣僚活動と外交努力
組閣には失敗したものの、宇垣一成の政治的手腕を惜しむ声は多く、1938年(昭和13年)には第1次近衛文麿内閣において、外務大臣兼拓務大臣として入閣した。日中戦争が泥沼化する中で、彼はイギリスやアメリカとの関係改善を図り、中国国民党の蔣介石政権との直接交渉による和平工作(宇垣工作)を試みた。宇垣一成は対英米協調を重視し、戦争の早期終結を目指したが、興亜院の設置を巡って外務省の権限が侵害されることに抗議し、わずか4ヶ月で辞任した。彼の外交努力は軍部強硬派の壁に阻まれ、日本は次第に太平洋戦争へと突き進む破局の道を歩むこととなった。
戦後の政界復帰と晩年
終戦後、宇垣一成は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によってA級戦犯容疑者として指名されたが、不起訴となり釈放された。その後、公職追放を受けたものの、1952年の追放解除とともに政界への復帰を周囲から望まれるようになった。1953年、宇垣一成は第3回参議院議員通常選挙に全国区から出馬し、実に50万票を超える圧倒的な得票数でトップ当選を果たした。高齢ながらも日本の再建に尽力しようとする姿勢は多くの国民の支持を集めたが、任期途中の1956年、静岡県伊豆長岡の別荘にて87歳でその生涯を閉じた。
宇垣一成の歴史的評価
| 項目 | 内容・意義 |
|---|---|
| 軍事面 | 宇垣軍縮による師団削減と、戦車・航空部隊の新設による軍近代化の推進。 |
| 政治面 | 軍部と政党政治の橋渡しを試みたが、板挟みとなり最終的に軍部から排除された。 |
| 統治面 | 朝鮮総督として産業開発を推進。経済基盤の整備に貢献したが、皇民化政策も実施。 |
宇垣一成は、軍人でありながら卓越した政治感覚を持ち合わせた「政治将軍」の典型であった。彼が目指した軍の合理化や対外協調路線が成功していれば、日本の歩んだ歴史は異なっていたかもしれないという仮定は、今なお多くの歴史家の関心を惹きつけている。軍内部の派閥抗争や時代の潮流に翻弄された側面もあるが、その一貫した現実主義的な態度は、近代日本が直面した軍政と民政の相克を如実に物語っている。