大躍進政策|毛沢東による愚策と中国全土の飢餓

大躍進政策

大躍進政策は毛沢東によって行われた共産主義政策のひとつでイギリスやアメリカに対抗するために行われたが、現実に即さない乱暴な政策により、農業は破壊され、国民は飢餓に苦しんだ。この責任をとる形で毛沢東は失脚する。大躍進政策ののち、毛沢東は権力闘争に勝つため、紅衛兵と呼ばれる学生らとともに文化大革命が行われる。

大躍進政策

1949年10月、毛沢東の下で中華人民共和国が誕生した。中華人民共和国は、ソ連型の社会主義経済路線をとる。1958年、毛沢東は、性急な社会主義国の建設を目標に、大躍進政策を掲げ、イギリス、アメリカへの対抗する国作りに取りかかった。

鉄鋼生産

毛沢東は、重工業を発展させるための鉄の生産量を高めるため、製鉄工場の建設に取りかかる。中小規模の製鉄工場を全国規模で展開し、製造を行いイギリス規模の鉄鋼生産高を目指した。100万基の溶鉱炉を6000万人の人民が建設するという非現実的なスローガンの下、全国のあらゆる場所で、手作りの製鉄所が作られました。

鉄鋼生産の失敗

全国のあらゆる農村で溶鉱炉ができたが、溶かすための鉄鉱石が存在しておらず、このため、クワやスキ、やかん、バケツなど手近にあった金属類を炉に投げ入れざるをえなかった。こうして農村から農作業用具がなくなり、鉄鋼生産を目指して作られた溶鉱炉で鉄製品がなくなる自体となる。こうして作られた鉄は、品質が悪く、使うことができなかった。さらに炉の燃料にするため、大量の山の木が切り倒され、ハゲ山となった木には、大洪水と山崩れを招いた。各地で大災害が発生し、農産物が取れなくなる。その一方で、1日に18時間の溶鉱炉での労働を課せられた農民たちには田畑で働く時間はなく貧困と飢饉が蔓延した。こうしたことが全国各地で行われた。

人民公社

毛沢東の共産主義理論にもとづいて、農民は集団生活をすることになる。「人民公社」と呼ばれる組織が作られ、集団生活の方針が末端に行くと、共産主義は私有財産を認めていないから、農民は個人の持ち物を一切持ってはいけないという悲惨な状況となった。共産主義理論の場合の私有財産とは、資本家の資本(工場施設)を示すが、素朴な農村地帯では、理解できる人はおらず、個人の持ち物を一切持たない集団生活に陥った。

飢饉

大躍進政策の失敗に中国全土の農業は破壊され、農村部はもちろん、首都の北京市内でも、野草をとって飢えをしのぐ人の姿が続出した。飢餓は日に日に深刻化していき、人肉を食べるという自体も横行するようになる。

毛沢東の失脚

1959年4月、毛沢東は、大躍進政策の失敗のために国家主を追われ、劉少奇(りゆう・しょうき)が国家主席に就任しました。毛沢東に代わって、劉少奇や鄧小平が経済の建て直しを担当しました。共産党の主席(党首)の座はそのままだったものの、毛沢東の立場が危うくなった。彭徳懐は、農産物の買い上げ価格を引き上げ、農地を農民に分配し、国家に売った残りは自由に処分できるようし、農民の生産意欲を高めた。その結果、1962年ごろから経済は復興し始めた。

彭徳懐の失脚

大躍進政策を批判した国防相の彭徳懐は、毛沢東から厳しい反撃を受けて失脚した。彭徳懐と近しい人々は、投獄・辺境の地に飛ばされた。彭徳懐は、朝鮮戦争で中国から派遣された義勇軍の司令官をつとめた英雄であったが、このことをきっかけに投獄され、拷問の中、死去する。

文化大革命

資本主義のような劉少奇や鄧小平の政策は、経済回復をもたらしたが、一方で毛沢東の立場が危うくなる。また毛沢東が掲げる農業の集団化は先送りされ、これは社会主義からの逸脱を意味した。こうした状況はやがて毛沢東は文化大革命をはかることになる。文化大革命により毛沢東は共産党内の権力闘争を制するが、知識層の青年の暴力と大量の犠牲を生んだ。

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