大津(宿駅)|東海道五十三次最大の宿場町として繁栄

大津(宿駅)

大津(宿駅)は、近世日本の主要幹線道路である東海道五十三次のうち、江戸から数えて69番目、つまり最後から2番目に位置する宿場町である。現在の滋賀県大津市中心部に該当し、東海道と中山道が合流する草津宿の次に位置する。西隣の終着点である京都・三条大橋までは約12km(3里弱)の距離にあり、京への入り口を固める交通・軍事・経済の要衝として極めて重要な役割を果たした。また、琵琶湖の水運と陸上交通を結ぶ結節点でもあったことから、物資の集積地として「大津百町」と呼ばれるほどの空前の繁栄を記録している。

東海道における重要性と立地

大津(宿駅)は、江戸時代を通じて幕府の直轄領(天領)であり、大津代官所が置かれるなど政治的にも重視された。東海道の宿場としては、関宿(三重県)などと並び最大級の規模を誇り、諸大名が宿泊する本陣や脇本陣、一般旅人が利用する旅籠が数多く立ち並んでいた。地形的には、背後に長等山や音羽山を控え、前面に琵琶湖を望む狭隘な土地に位置していたが、この地理的条件が逆に関所のような役割を果たし、京の治安維持における防衛線の機能も有していた。

琵琶湖水運との連携と経済

大津(宿駅)の最大の特徴は、単なる宿場町にとどまらず、湖上交通の拠点である「大津港」を併設していた点にある。北陸地方や近江国各地から船で運ばれてきた米や特産品は、一度大津(宿駅)で陸揚げされ、そこから牛車によって京の都へと運搬された。この物流ルートを支えるために、大津(宿駅)から京都までの道には「車石」と呼ばれる牛車専用の石敷き道が整備されていた。こうした物流機能の集中により、宿内には米問屋や肥料問屋などが軒を連ね、宿駅としての宿泊需要だけでなく、商業都市としての性格を強く帯びるようになった。

宿場施設の規模と構成

大津(宿駅)の施設規模は、天保14年(1843年)の『東海道宿村大概帳』によると、宿内人口は約1万5000人近くに達し、家数は3000軒を超えていた。これは東海道の宿場の中でも屈指の数字であり、以下の表に示す通り、宿泊施設の充実ぶりがうかがえる。

項目 詳細(天保年間)
本陣 2軒
脇本陣 1軒
旅籠 71軒
問屋場 1箇所

大津百町と町並みの変遷

大津(宿駅)を中心とした市街地は「大津百町」と称され、江戸時代を通じて複雑な町割りが形成された。宿場内は大きく分けて、上大津、中大津、下大津の3つのエリアで構成され、職人町や寺町などが整然と配置されていた。町衆の力も強く、現在まで続く「大津祭」の曳山行事などは、当時の豊かな経済力を背景に発展した文化遺産である。また、大津(宿駅)の北側には札の辻が置かれ、ここが東海道と北国街道の分岐点となっていた。

宿場文化と特産品

多くの旅人が行き交う大津(宿駅)では、独特の民俗文化や土産物も発達した。その代表例を以下に列挙する。

  • 大津絵:仏画や風刺画を描いた民俗画で、旅人の土産として爆発的な人気を博した。
  • 大津算盤:日本における算盤製作の発祥地の一つとされ、実用的な土産として重宝された。
  • 走り井餅:逢坂関の近くに湧き出る「走り井」の水を用いた餅で、多くの紀行文に登場する。
  • 針:大津は良質な針の産地としても知られ、裁縫用の針が広く流通した。

逢坂関の歴史的背景

大津(宿駅)から京都方面へ向かう途中に位置する逢坂関は、古代から歌枕として多くの和歌に詠まれた名所である。平安時代には「関蝉丸神社」が建立され、旅の安全を祈願する場所となっていた。江戸時代の大津(宿駅)利用者にとっても、この難所を越えることは京都到着を実感させる象徴的な出来事であり、多くの文人墨客がこの地で作品を残している。

明治維新と宿駅制度の終焉

明治時代に入ると、1872年(明治5年)の伝馬所廃止により、大津(宿駅)としての公的な役割は終了した。しかし、1880年(明治13年)に京都・大津間で鉄道が開通(現在の東海道本線の一部)し、さらに琵琶湖運河(琵琶湖疏水)が完成したことで、大津(宿駅)は近代的な物流・交通の拠点として再編された。宿場時代の木造建築の多くは都市化の中で失われたが、現在でも旧東海道沿いには当時の町割りが色濃く残り、一部の老舗店や道標がかつての賑わいを伝えている。

近隣の宿場との関係

大津(宿駅)は、先行する草津宿との距離が近く、旅人の多くは草津で宿泊するか、一気に大津まで足を伸ばして翌朝一番に京都入りする旅程を組んだ。また、大津からは伏見へと向かう「伏見街道」も分岐しており、大坂(大阪)方面へ向かう旅人にとっても重要な分岐点であった。このように、大津(宿駅)は単なる通過点ではなく、近江・山城・摂津を結ぶ巨大なネットワークの中枢として機能していたのである。