大抗議書
大抗議書は、1641年11月、イングランドの長期議会下院が国王チャールズ1世に提出した文書である。これは、これまでの専制的な統治や財政・宗教政策に対する不満を体系的に列挙し、王権の抑制と議会政治の強化を訴えたものであり、やがて勃発する清教徒革命(イングランド内戦)に向かう重要な転機となった文書である。
成立の背景
チャールズ1世は父王ジェームズ1世を継いで即位すると、議会としばしば対立し、課税や軍事費をめぐって強い王権を主張した。とくに、1628年の権利の請願で議会が王権の制限を求めたにもかかわらず、その後は議会を召集せずに統治を行う「専制的統治」を続けたことが、議会側の不信と怒りを高めた要因である。
さらに、王はイングランド国教会を通じて礼拝の統一や儀式の重視を進め、これに反発したピューリタン勢力を抑圧した。スコットランドへの礼拝書導入はスコットランドの反乱を誘発し、戦費調達のために一旦解散した短期議会に続いて長期議会が召集されることとなる。このような政治・宗教・財政をめぐる緊張が、大抗議書成立の直接的な背景となった。
文書の性格と目的
大抗議書は、単に不満を列挙した請願書ではなく、王政のあり方を批判的に総括し、今後どのような政治体制を築くべきかを示そうとする政治綱領的文書である。その目的は、国王に対して過去の誤りを認めさせ、王権行使を議会の同意に基づくものへと改めさせることであった。また、同時代の人々に向けた宣伝文書としての性格も強く、王と議会のいずれに正当性があるのかを世論に訴える役割も担っていた。
大抗議書の主な内容
大抗議書に盛り込まれた主張は多岐にわたるが、概ね次のように整理できる。
- 国王の側近や一部の大臣が国政を私物化し、不法な課税や徴税を行ってきたことへの批判
- 議会の同意を経ない課税や、議会を無視した統治が慣例化したことへの強い反発
- 国教会内部で推し進められた儀式の豪華化やカトリック的傾向に対する告発
- ピューリタンなど改革派プロテスタントに対する弾圧の中止と、より徹底した宗教改革の要求
- 今後の国王の顧問や大臣任命において、議会の信任を得た人物を登用することの要求
このように、大抗議書は過去の不満の羅列にとどまらず、王権を憲法的に制約し、議会主導の政治体制を打ち立てるための包括的な改革案を示していたのである。
議会内の対立と採決
大抗議書は、議会側の統一した意思を示す文書に見えるが、その採択過程では議会内部でも激しい対立が生じた。王権に対して強硬姿勢を取る急進派と、なお妥協の余地を探ろうとする穏健派のあいだで意見が分かれ、採決は僅差であったと伝えられる。
最終的に下院で可決されたものの、わずかな票差での成立は、イングランド社会全体がまだ決定的な分裂に踏み切っていなかったことを示している。同時に、可決そのものは、王と議会の関係がもはや修復困難な段階へ入りつつあることを象徴する出来事でもあった。
国王との関係悪化と清教徒革命への影響
大抗議書の提出は、国王チャールズ1世との関係をさらに悪化させた。国王は自らの統治を全面的に批判する内容に強く反発し、議会側の一部指導者の逮捕を試みるなど強硬手段に訴えた。これに対し、ロンドン市民や議会支持者が反発し、王と議会の対立は武力衝突へと向かっていく。
1642年に内戦が勃発すると、大抗議書は議会側が自らの正当性を主張する際の重要な根拠として用いられた。王政の専制的傾向を歴史的に整理し、それに対抗する議会の闘争を正当化した点で、この文書は清教徒革命の思想的な支柱の一つとなったのである。
歴史的意義
大抗議書は、近代イギリスの立憲主義と議会主権の発展史の中で重要な位置を占める。後の名誉革命や権利章典に見られるような、王権を法と議会によって拘束する考え方は、この時期の議会側の主張にさかのぼることができる。とくに、国王の大臣任命に議会の信任を求める発想は、のちの責任内閣制の萌芽として評価されている。
このように、大抗議書は一つの時代の政治的要求をまとめた文書であると同時に、ヨーロッパの絶対王政から立憲政治へと移行していく流れを象徴する史料であり、イギリス史のみならず、近代政治思想史を理解するうえでも重要な役割を果たしている。