大塚久雄
大塚久雄(おおつか ひさお、1907年 – 1996年)は、日本の経済史学者であり、戦後日本の社会科学界に多大な影響を与えた人物である。東京大学名誉教授を務め、その学問体系は「大塚史学」として広く知られている。大塚久雄は、マックス・ウェーバーの社会学とカール・マルクスの経済学を独自に総合し、日本の近代化を推進するための理論的基礎を築いた。彼の研究は、単なる経済データの分析にとどまらず、人間の内面的な倫理や行動様式が経済発展にどのような役割を果たすかに焦点を当てた点に特徴がある。
学問的背景と大塚史学の形成
大塚久雄の学問は、1930年代の閉塞した日本社会の中で、いかにして真の近代化を達成するかという問いから出発した。彼は、西欧における資本主義の成立過程を研究し、それが単なる制度の変更ではなく、人間の内面的な変革を伴うものであることを強調した。特にマックス・ウェーバーの著作に深く共鳴し、勤勉と節欲を尊ぶ「近代的人間型」の形成が、産業発展の真の原動力であると説いた。この視点は、当時の日本が抱えていた半封建的な社会構造を打破するための思想的指針として、多くの知識人に受け入れられた。
「局地的市場圏」と産業資本の起点
大塚久雄は、経済史の研究において「局地的市場圏」という概念を提唱した。これは、中世の封建制が解体される過程で、農村の生産者が自立し、互いに結びついて形成される市場の広がりを指す。彼は、巨大な商業資本や問屋制資本ではなく、こうした自立的な中産的生産者層こそが、真の産業資本形成の担い手であると分析した。この理論は、カール・マルクスが提示した生産者の資本家への転化という歴史的プロセスを、具体的な歴史事実に即して実証しようとする試みでもあった。
近代的人間型の提唱とエートス論
大塚久雄が最も重視したのは、経済主体としての「人間」であった。彼は、経済発展を支えるのは合理的な判断力と自律的な倫理観を持った個人であり、そのような人間型が形成されない限り、真の民主主義や経済的自立はあり得ないと主張した。特に、宗教改革を経て確立されたプロテスタントの倫理が、西欧における近代化の精神的支柱となったことを評価した。大塚久雄は、日本の近代化が上からの命令による模倣に終始したことを批判し、民衆一人ひとりの内面からの変革を求めた。この「エートス論」は、戦後の民主主義教育や社会啓蒙運動に強い影響を与えた。
共同体論とその解体
大塚久雄は、日本の社会構造の根底にある「共同体」についても深い洞察を行った。彼は、伝統的な村落共同体などが持つ閉鎖性や集団主義が、個人の自律を妨げていると分析した。近代化とは、こうした古い共同体を解体し、自律的な個人が自由な意志で結びつく「市民社会」を構築するプロセスであると定義した。彼の著書『共同体の基礎理論』では、アジア的共同体やゲルマン的共同体などの比較研究を通じて、歴史の発展段階における共同体の役割とその超克の必要性を論じている。
主な著作と学術的遺産
大塚久雄の業績は多岐にわたるが、その核心は常に「近代とは何か」という問いに集約されていた。彼の代表的な著作を以下に挙げる。
- 『近代欧州経済史序説』:イギリスをモデルとした産業資本の成立過程を詳述した主著。
- 『近代資本主義の系譜』:ウェーバーとマルクスの視点を融合させ、近代社会の本質に迫った論考。
- 『共同体の基礎理論』:歴史における共同体の構造と変容を理論化した名著。
- 『社会科学における人間』:経済学や社会学が扱うべき人間像について論じた晩年の論集。
戦後啓蒙主義と丸山眞男との関係
戦後の言論界において、大塚久雄は政治学者の丸山眞男とともに「戦後啓蒙主義」の双璧をなした。二人は、日本が二度と全体主義に陥らないためには、個人の主体性を確立する必要があると説いた。丸山が政治・思想の面から「主体性」を説いたのに対し、大塚久雄は経済・生活の面から「近代的人間」の確立を説いた。二人の思想は、1950年代から60年代にかけての日本の知識層にとって、進むべき道を示す羅針盤のような役割を果たした。しかし、高度経済成長とともに「経済大国」となった日本において、大塚の説いた禁欲的な近代精神が消費社会に埋没していくことに対し、彼は晩年まで警鐘を鳴らし続けた。
大塚史学の批判と現代的意義
1970年代以降、大塚久雄の理論は、あまりにも西欧をモデルとした一国近代化論であるとして、構造主義やポストモダン、あるいは第三世界研究の視点から批判を受けることもあった。イギリスを「普遍的なモデル」とする見方は、多様な歴史のあり方を無視しているという指摘である。しかし、彼が問うた「経済発展と人間の倫理の関係」や「社会構造の根底にある人間類型」という問題意識は、現代のグローバル社会においても依然として重要である。環境問題や格差拡大といった現代の課題に直面する中で、単なる数字上の成長ではない、人間の真の豊かさを求めるための学問として、大塚久雄の思想は再評価されている。
大塚久雄の主要経歴一覧
| 年 | 事項 |
|---|---|
| 1907年 | 京都府に生まれる |
| 1930年 | 東京帝国大学経済学部を卒業 |
| 1938年 | 法政大学教授に就任 |
| 1947年 | 東京大学教授に就任 |
| 1955年 | 『共同体の基礎理論』を刊行 |
| 1968年 | 東京大学を定年退官、名誉教授 |
| 1992年 | 文化勲章を受章 |
| 1996年 | 逝去(享年89) |