合衆国憲法の制定|連邦体制を確立した歴史的転機

合衆国憲法の制定

合衆国憲法の制定は、アメリカ独立戦争の勝利によって主権を獲得したアメリカ合衆国が、緩やかな同盟から恒久的な連邦国家へと移行する過程で生まれた政治的転換点である。1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開かれ、1788年に十分な州の批准を得ると、1789年に新憲法の下で連邦政府が発足した。この成文憲法は、近代立憲主義の典型として世界各国の憲法制定に影響を与え、現在も改正を重ねつつ基本構造を維持している。

独立戦争後の危機と連合規約

独立直後の合衆国は、旧植民地13州のゆるやかな同盟にすぎず、その枠組みを定めたのが旧憲法にあたるアメリカ連合規約であった。この規約の下で最高機関とされた連合会議は、外交や戦争指揮などを担ったが、課税権や通商規制権を欠き、州からの任意の拠出に依存していた。そのため戦時債務の返済は進まず、州ごとの関税や通貨乱発により経済は混乱し、統一市場や強力な中央政府を求める声が高まったのである。

憲法制定会議の開催

1780年代半ばには、州間通商の調整をめざしたアナポリス会議が開かれたが、本格的な改革には至らなかった。一方で農民反乱として知られるシェイズ反乱が起こり、州政府の統治能力と既存体制への不満が露呈した。こうした危機感から、1787年にフィラデルフィアで全州代表による憲法制定会議を開催し、単なる連合規約の修正ではなく、新たな連邦憲法の起草へと議論の中心が移っていった。議長にはジョージ・ワシントンが選ばれ、ジェームズ・マディソンら理論家が構想を提示した。

バージニア案とニュージャージー案

会議ではまず、新政府の構造をめぐって人口の多い大州と小州が対立した。大州側は人口比に応じて代表を配分する二院制議会を構想するバージニア案を提案し、小州側は各州が平等な一院制を維持するニュージャージー案を主張した。最終的には、上院で各州平等、下院で人口比例とする「大妥協」によって二案が折衷され、連邦議会の基本構造が定められたのである。

大妥協と三分の五妥協

代表制をめぐる妥協は、奴隷制問題とも結びついていた。奴隷を多く抱える南部諸州は、奴隷人口も議席配分に算入することを求め、北部諸州はこれに反対した。その結果、課税と代表の算定において奴隷を「一人あたり五分の三」とみなす三分の五妥協が成立し、奴隷制を温存したまま連邦国家の枠組みが築かれた。また連邦政府は対外通商権や関税権を持つ一方、奴隷貿易禁止の全面実施は一定期間先送りされるなど、政治的・経済的利害に基づく多数の妥協が積み重ねられた。

批准闘争と権利章典

憲法草案は会議参加者の署名後、各州の批准会議で承認を得る必要があった。強力な連邦政府を支持する連邦派と、州権や個人の自由を重視する反連邦派のあいだで激しい論争が起こり、新聞論文やパンフレットを通じて世論戦が展開された。連邦派は、自由を保障する権利宣言を憲法に付加することを約束することで支持を広げ、反連邦派も一定の条件のもとで批准を受け入れた。こうして1791年に最初の10条の修正条項、すなわち権利章典が追加され、言論・信教の自由や適正手続などの保障が明文化されたのである。

  • 言論・出版・集会・信教の自由の保障
  • 武器保持、住居・身体・財産の不当な捜索・押収の禁止
  • 陪審裁判を含む刑事手続上の権利の保障
  • 連邦政府権限の限定と、州および人民に留保された権利の確認

思想的背景と合衆国憲法の意義

新憲法と権利章典の背後には、共和主義や自然権思想、権力分立論など18世紀啓蒙思想が存在した。これらは、独立の正当性を主張したアメリカ独立宣言や、その起草者であるジェファソンらの政治思想にも通じている。また、独立戦争期に大陸軍を支援したラ=ファイエットらとの交流を通じて、アメリカの憲法経験はヨーロッパにも伝わり、後のフランス革命や立憲運動にも影響を及ぼした。連邦制と三権分立を柱とする合衆国憲法は、各州の自治と中央政府の権限を調和させつつ、個人の自由を制度的に守る仕組みを示した点で画期的であり、その後に制定されるアメリカ合衆国国旗などの国家象徴とともに、新生国家のアイデンティティ形成に寄与したのである。