右院|明治初期の太政官制における各省の合議機関

右院

右院(ういん)とは、1871年(明治4年)から1875年(明治8年)にかけて、日本の明治維新期における中央政府組織であった太政官制の中に設置された行政機関の一つである。同年7月の廃藩置県に伴う官制改革によって導入された「三院制」の一角を担い、主に各省間の行政事務の調整や連絡を図る役割を果たした。正院が国政の最高意思決定を行い、左院が立法の諮問機関として機能する中で、右院は実務を担う各省の長官(卿)および次官(大輔)によって構成される合議体としての性格を有していた。しかし、その権限は正院に集中していたため、独立した意思決定権を持つことは少なく、1875年の大阪会議を経た官制改革により、元老院や地方官会議へと再編される形で廃止された。このように右院は、近代日本の官僚機構が確立される過程における過渡的な調整機関として重要な位置を占めている。

右院の設置と官制改革の背景

1871年8月(明治4年7月)、明治政府は強力な中央集権化を推進するために廃藩置県を断行し、それに伴って政府の中枢組織である太政官の構造を大幅に刷新した。この改革によって、政府は正院、左院、右院の三院に分割されることとなった。正院は天皇を輔弼する太政大臣、左右大臣、参議によって構成され、国家の最高方針を決定する権限を独占した。対して左院は、集議院を吸収する形で設置された立法諮問機関であり、政府の法案を審議する役割を担った。そして右院は、実際に各行政部門を司る各省の首脳陣が協議する場として規定された。この官制の目的は、決定(正院)、審議(左院)、執行・調整(右院)という役割分担を明確にすることで、煩雑化した政府業務を効率化することにあったが、実際には正院による独裁的傾向を強める結果となった。

右院の組織構成と構成員

右院は、各省の長官である「卿(きょう)」および次官である「大輔(たいふ)」を構成員として組織された。具体的には、外務省、大蔵省、兵部省(後に陸軍省・海軍省)、文部省、工部省、司法省、宮内省といった主要官庁のトップが顔を揃える合議体であった。この組織構造により、右院は各行政部門間の横断的な連絡や、政策執行における実務上の問題点を共有する場として機能した。当初は参議が各省の卿を兼任することが多かったため、正院と右院の境界は曖昧であったが、1873年(明治6年)の政変以降、参議と卿を分離する動きが進むと、右院はより純粋な行政実務者の会議体としての色彩を強めていった。しかし、構成員が多忙な各省の長官であったことから、定例的な開催や実効性のある議論の維持には困難も伴った。

行政実務における役割と権限

右院の主な任務は、各省間で利害が対立する案件の調整や、正院から下達された政策の具体的な施行方法を検討することにあった。例えば、予算の配分や大規模なインフラ整備計画、教育制度の構築など、単一の省庁では完結しない課題について、各省の代表者が意見を戦わせる場となったのである。また、左院で審議される法案の草案作成段階において、実務的な観点から修正案を提示することも右院の重要な役割であった。しかし、右院には独自の決定権が付与されておらず、協議の結果はすべて正院の裁可を仰ぐ必要があった。このため、右院はあくまで正院の補助的な行政調整機関に留まり、大久保利通木戸孝允といった有力な参議が支配する正院の決定を追認する場になることも少なくなかった。

三院制における各機関の比較

太政官制下の三院は、それぞれの役割が明確に区分されていたものの、権限の大きさには明確な序列が存在した。以下の表は、各院の主な特徴を比較したものである。

機関名 主な役割 主な構成員
正院 国政の最高意思決定、政策の最終裁定 太政大臣、左右大臣、参議
左院 法案の審議、立法の諮問、公議の反映 議長、副議長、議員
右院 行政各省の連絡・調整、実務協議 各省の卿、大輔

内紛と右院への影響

明治初期の政府は、征韓論を巡る対立や士族の反乱など、多くの内憂外患に直面していた。1873年の明治六年の政変により、西郷隆盛や板垣退助といった参議が下野すると、政府内では大久保利通を中心とする有司専制体制が強化された。この過程で、右院は行政の能率化を支える装置として利用される一方で、政治的な主導権からはますます遠ざけられることとなった。参議が省の長官を兼務しなくなる「参議省卿分離」の原則が一時的に強化されると、右院は政治判断から切り離された純然たる「事務局」としての地位に押し込められた。このような政治状況の変化は、後に「公議輿論」を求める自由民権運動の台頭を招き、より本格的な立法機関や行政組織の再編を促す要因となった。

右院の廃止と後世への影響

1875年(明治8年)、立憲政体の樹立を求める声が高まる中、政府は大阪会議を経て官制の大規模な再編を決定した。同年4月に発布された「立憲政体の詔」に基づき、左院と右院はともに廃止されることとなった。右院が担っていた各省間の行政調整機能は、新たに設置された内閣制度の原型となる仕組みや、地方行政の意見を吸い上げる地方官会議へと引き継がれた。特に右院の廃止は、それまでの三院制という不安定な分権構造から、正院を中心とした強力な内閣制への移行を準備するステップであったと言える。右院という組織自体は短命に終わったが、そこで培われた各省間の合議の慣習や官僚機構の基礎は、その後の明治政府の行政運営に大きな足跡を残したのである。

制度史的意義

右院の存在は、日本の官僚制形成期における「行政の専門化」と「統合」の葛藤を象徴している。初期の太政官制が抱えていた混乱を整理し、専門的な行政部門(省)を束ねるための組織的な試行錯誤の結果が右院であった。現在の大臣会合や各省次官会議といった、現代の行政運営における調整メカニズムの淵源の一つとして、右院の仕組みを捉え直すことも可能である。当時の指導者たちが、いかにして広範な行政事務を統一的に管理しようとしたかを知る上で、右院の変遷は欠かせない歴史的事実である。