右近衛大将|近衛府右方を統括する武官の最高職

右近衛大将

**右近衛大将**(うこんえのだいしょう)は、日本の律令制官制における重要な武官職の一つであり、天皇の身辺警護や内裏の守備を司る「右近衛府」の最高責任者である。左近衛府の長官である左近衛大将と並び、近衛府の頂点に立つ職として「両大将」と称された。唐名は「右羽林大将軍」や「右武衛大将軍」などと記され、和訓では「おおかたのちかきまもりのつかさのり」と呼ばれる。平安時代以降、その職威は極めて高まり、単なる軍事的な指揮官にとどまらず、大臣や大納言といった高位の公卿が兼任する名誉ある地位となった。宮中儀礼や行幸においても中心的な役割を担い、公家社会の昇進コースにおける最高峰のステータスを象徴する官職として機能した。

右近衛大将の沿革と設立

**右近衛大将**の起源は、奈良時代後期の天平神護元年(765年)にそれまでの「授刀衛」が「近衛府」へと改称・編制されたことに始まる。当初は単一の組織であったが、大同2年(807年)の官制改革により、左近衛府と右近衛府に分割され、それぞれに長官としての「大将」が置かれる体制が確立した。これにより、平安時代を通じて宮廷警衛の中核を担う組織構造が整えられた。初期には武官としての実績がある者が任じられたが、次第に藤原北家を中心とする有力貴族がこの職を独占するようになり、実務は配下の中将や少将が執り行う形式的な名誉職へと移行していった。しかし、その権威は幕末まで維持され、朝廷の最高ランクの官職として存続した。

職務内容と権限

**右近衛大将**の主たる任務は、天皇の護衛と内裏内の治安維持である。具体的には、天皇が外出する「行幸」の際に、近衛官人を率いて先導・護衛を行うことが最も象徴的な職務であった。また、内裏の各門のうち、右近衛府が担当する門の警備や、夜間の宿直(しゅくじき)の統括も重要な役割であった。天皇の日常的な居住空間である清涼殿の警衛においても、左近衛府と交代で任務にあたった。さらに、武官の筆頭として、宮中の馬場での儀式や馬の管理を司る「馬御監(うまのごげん)」を兼ねることが通例であり、軍事的な実力と儀礼的な権威を兼ね備えた存在として、朝廷政治に大きな影響力を持っていた。

官位相当と兼任の慣例

役職名 内容
相当官位 従三位
定員 1名
主な唐名 右羽林大将軍、右武衛大将軍
兼職 馬御監、検非違使別当、左右馬寮御監

**右近衛大将**は令外官(りょうげのかん)であり、官位相当は従三位とされていた。しかし、その職の重さから、実際には正三位や従二位、あるいは一位を持つ大臣などが兼任するのが一般的であった。特に「大将兼任」は、摂関政治において実権を握るための重要なステップと見なされた。この職は左大将や内大臣と並び「三職」と称され、これらを歴任することが公卿にとって最高の栄誉であった。また、朝廷の行政や儀式が停滞した際、近衛大将の権威をもって事態を収拾することも多く、政治的な調整役としての側面も持っていた。

源頼朝と右近衛大将の意義

武家政権の創始者である源頼朝が、建久元年(1190年)に**右近衛大将**に任ぜられたことは、日本史上極めて重要な転換点である。頼朝は長年望んでいたこの職に就くことで、自身の武家権力を朝廷の伝統的な官位体系の中に位置づけ、政治的正当性を確立した。この時、頼朝を支えた藤原氏ら名門公家との関係も深まった。頼朝はわずか数日で辞任したものの、その後も「右大将(うだいしょう)」や「幕下(ばっか)」と尊称され続け、これが後の歴代将軍が近衛大将を歴任する先例となった。武士が朝廷の最高ランクの武官職を得ることは、中世における武家の社会的地位の確立を象徴する出来事であった。

左近衛大将との比較と優先順位

**右近衛大将**は、常に左近衛大将と対になる存在であった。律令の原則に基づき「左」は「右」より上位とされるため、公式な儀仗の配列や宮中の席次では常に左大将が優先された。例えば、公卿の合議体である「陣定」における発言順や、行幸の際の配置においても左大将が主位を占めた。しかし、実質的な権限や職務内容において両者に大きな差はなく、どちらに就くかは時の政治バランスや家格によって決定された。実力者が右大将に留まることで、あえて左大将の空位を維持し、自身の嫡子をそこに据えるといった高度な政治工作が行われることも少なくなかった。

近衛府の組織と構成員

  • 大将(1名):府の最高指揮官。公卿が就任。
  • 中将(左右各1〜2名):大将を補佐する次官。
  • 少将(左右各2〜4名):中将に次ぐ幹部官人。
  • 将監・将曹:行政実務や下級官人の管理を担う。
  • 近衛:実際の警衛を行う兵士。五位以上の者の子弟などが選ばれた。

**右近衛大将**が率いた近衛府は、非常に格式の高い組織であった。その構成員である近衛は、身体能力に秀でているだけでなく、出自が重視される傾向にあった。大将の下には、実務を仕切る中将や少将といった「次官(すけ)」、事務を司る「判官(じょう)」や「主典(さかん)」が置かれた。この組織は天皇の親衛隊としての機能を持ち、同時に宮廷内の警察権も一部行使した。平安時代中期以降、武士の台頭により実力行使の場面は減ったものの、組織としての威容は保たれ続け、公家文化における「武」の美学を体現する場としての性格を強めていった。

貴族文学における表現と文化的側面

王朝文学において、**右近衛大将**は「気高き貴公子の象徴」として描かれることが多い。『源氏物語』などの古典作品では、主人公やそのライバルがこの職に就く描写が、彼らの社会的成功と魅力を強調する要素として用いられた。装束の面でも、大将のみが着用を許される特別な意匠の「欠腋袍(けつれきのほう)」や、華麗な刀剣の意匠などは、平安貴族の憧れの的であった。儀式の際に**右近衛大将**が整然と隊列を率いる姿は、当時の人々にとって理想的な国家の秩序と美しさを象徴する光景であり、政治・軍事・文化が融合した平安時代の象徴的な地位であったといえる。

職制の衰退と近代への終焉

中世以降、武家が政治の実権を握り、朝廷の軍事力が形骸化するにつれて、**右近衛大将**も次第に実務を伴わない形式的な官称へと変容していった。鎌倉幕府や室町幕府の将軍家、あるいは有力な守護大名がこの職を拝命することは、武家としての格式を示すための名誉的な称号としての意味合いが強まった。江戸時代においても、徳川将軍家の世嗣などが形式的に任じられ、朝廷の権威を補完する役割を果たした。最終的には明治2年(1869年)の明治維新に伴う官制改革によって、他の律令官職とともに廃止された。しかし、その名称は今なお歴史学や古典文学の世界で、往時の朝廷の栄華を伝える重要なキーワードとして残り続けている。