北伐
北伐とは、1926年から1928年にかけて中国国民党が実施した軍事行動であり、南方の広東国民政府を拠点に各地の軍閥政権を打倒し、中国の名目上の統一をめざした戦争である。第一次世界大戦後も群雄割拠が続いていた中国において、蔣介石が中心となって推進したこの戦役は、軍事的統一だけでなく、帝国主義勢力の影響力を後退させ、近代的な国民政府体制の成立につながる転換点となった。
背景―軍閥割拠と国民革命の構想
辛亥革命後、辛亥革命の成果は北洋軍閥の統治によって制限され、中国は各地の軍閥が割拠する状態に陥った。こうした状況の中で孫文=ヨッフェ共同宣言を経て、孫文はソ連の支援を受けつつ三民主義を基礎に党の再建を進め、連ソ容共扶助工農の方針のもとで中国共産党との提携を進めた。この国共合作と「国民革命」の構想の中核に位置づけられた軍事行動が北伐である。
広東国民政府と軍事基盤の整備
1920年代前半、広州国民政府(広東国民政府)は、南中国における革命政権として成立し、ここを足場に北伐の準備が進められた。軍事的中核となったのが黄埔軍官学校であり、ソ連軍事顧問団の指導のもとで幹部候補生が養成され、のちの国民革命軍の骨幹を形成した。また中国国民党一全大会では、党の組織原則と革命綱領が整備され、北伐開始の政治的準備が整えられた。
北伐の開始と南方戦線
1926年、北伐は正式に開始され、国民革命軍は長江流域と華中・華北をめざして進軍した。初期の目標は、湖南・湖北一帯を支配していた軍閥勢力の打倒であり、農民運動や都市の労働運動と連携しながら、国民革命の名のもとに支持を広げた。とくに五三〇運動などの反帝国主義運動の高まりは、五三〇運動をはじめとする都市の抗議行動と響きあい、北伐軍に愛国的な大義名分を与えた。
長江下流への進出と国民党内の分裂
北伐軍が武漢・南京・上海へと進出すると、沿岸の外国租界と列強利権にも影響が及び、国際的緊張が高まった。上海では労働者蜂起と国民革命軍の進駐が重なり、中国革命運動は一時的に高揚したが、やがて蔣介石は共産党勢力を排除する路線へと転じ、いわゆる国民党右派のクーデタを断行した。この結果、南京の南京国民政府と武漢政府が対立し、国共合作は崩壊に向かったが、軍事行動としての北伐自体は継続された。
北京政府の崩壊と形式的統一
1928年、北伐は華北にまで及び、北京を拠点とする北洋政府は次第に求心力を失った。張作霖政権の後退とその死去を契機として、東北の勢力も最終的に南京国民政府への服従を表明し、中国全土は名目上、国民政府のもとに統一された。この一連の過程により、軍閥割拠の時代は大きく後退し、北伐は「中国統一戦争」として歴史上に位置づけられている。
北伐の特徴と意義
- 軍事行動として軍閥打倒と国家統一をめざしたこと
- 第1次国共合作の枠組みのもとで、国民党と共産党の協力が進められたこと
- 反帝国主義・民族独立のスローガンを掲げ、都市労働者や農民運動と結びついたこと
- 最終的には右派による共産党弾圧を招き、中国内戦の出発点ともなったこと
その後への影響
北伐の結果成立した南京の国民政府は、関税自主権の回復や不平等条約の改定を進め、中国の主権回復に一定の成果をあげた。他方で、地方勢力の残存や経済基盤の脆弱さから中央集権は不完全にとどまり、日本をはじめとする列強との対立も続いた。また、国共分裂後に広がった内戦と農村革命は、のちの中国共産党政権の成立につながり、北伐は近代中国政治の長期的な対立構造を形成する重要な契機となった。
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