円勝寺|待賢門院璋子が建立した平安の六勝寺

円勝寺

円勝寺(えんしょうじ)は、平安時代末期の院政期において、京都の白河(現在の京都市左京区岡崎)の地に建立された天台宗の寺院である。鳥羽天皇の中宮であった待賢門院(藤原璋子)の発願により、大治3年(1128年)に落慶供養が行われた。白河天皇が建立した法勝寺をはじめ、歴代の天皇や中宮が「勝」の字を冠して建立した六つの御願寺、いわゆる六勝寺の一つに数えられる。当時、この地域は政治・文化の中心地として栄えており、円勝寺はその中でも女院による発願という独自の背景を持ち、壮麗な伽藍を誇っていた。

歴史的背景と発願

円勝寺の建立は、平安時代における院政の最盛期に行われた。この時代、皇室や公卿の間では現世の安穏と来世の引導を祈念した御願寺の造営が相次いでいた。円勝寺の発願主である待賢門院は、鳥羽天皇の正妃であり、後の崇徳天皇や後白河天皇の母でもある権勢を誇った女院である。彼女の強い経済力と信仰心により、大治3年11月に金堂の落慶供養が盛大に行われた。記録によれば、その供養には鳥羽上皇や関白・藤原忠通らをはじめとする多くの貴族が参列し、院政期の宗教的情熱を示す象徴的な出来事となった。また、円勝寺は後に建立される成勝寺や延勝寺とともに、白河の地における寺院群の中核を担った。

伽藍構成と特徴

円勝寺の敷地は、現在の京都市美術館から岡崎公園の一帯に広がる一町四方の規模であった。最大の特徴は、その独特な塔の配置にある。通常の寺院では塔は一つ、あるいは東西に二つ並べられるのが一般的だが、円勝寺には「東御塔」「中御塔」「西御塔」という三基の五重塔が横一列に並んでそびえ立っていたことが、発掘調査や古記録から判明している。本尊を安置する金堂や阿弥陀堂も極彩色で彩られ、内部は螺鈿や金泥を用いた華麗な装飾が施されていた。

主要堂舎 役割・特徴
金堂 寺院の中心的な建物であり、釈迦如来が安置されていた。
阿弥陀堂 待賢門院の浄土信仰を反映し、極楽往生を願う空間。
三基の五重塔 東・中・西に並び、白河の景観を象徴する壮大な建築。
観音堂 慈悲の象徴として多くの参拝者が訪れた。

六勝寺における位置づけ

白河の地には、白河天皇の法勝寺を筆頭として、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺の六寺が建立された。これらは総称して六勝寺と呼ばれ、国家の平和を祈る護国寺院としての性格を強めていた。円勝寺は四番目に建立された寺院であるが、女院による御願寺としては最大級の規模を誇り、藤原璋子の権勢を内外に示す役割も果たしていた。当時の貴族たちは、これらの寺院を巡礼することで功徳を積むとともに、華やかな仏教儀礼を通じて社交や文化交流を行っていたのである。

衰退と廃絶

平安時代の終焉とともに、院政の力が弱まると、六勝寺の維持管理は困難を極めるようになった。円勝寺も例外ではなく、承久元年(1219年)には火災に見舞われ、多くの堂舎が焼失した。その後、崇徳天皇や後白河天皇の時代の名残として一部が再建されたものの、鎌倉時代から南北朝時代にかけて次第に衰微していった。最終的には応仁の乱(1467年〜1477年)の兵火により、他の六勝寺とともに灰燼に帰し、廃絶するに至った。近世以降、その敷地は農地や住宅地へと姿を変え、かつての壮麗な姿は地上から消滅した。

現代の調査と遺構

現在、円勝寺の跡地は岡崎公園や京都市京セラ美術館の周辺となっており、かつての栄華を伝える地上構造物は存在しない。しかし、昭和以降に行われた数次の発掘調査により、五重塔の基礎石や金堂の基壇跡、さらには当時の瓦や土器が多数出土している。

  • 京都市美術館の建設時および改修時に、大規模な基壇跡が確認された。
  • 岡崎公園内には「円勝寺跡」を示す石碑が建立されている。
  • 出土した瓦には「円」の文字が刻まれたものがあり、当時の特定に寄与した。
  • 三基の塔が並んでいたとされる推定地は、二条通沿いの遺構確認によって裏付けられた。

文化的継承

円勝寺という名称は失われたが、その美意識や建築思想は後の日本仏教建築に少なからず影響を与えた。また、待賢門院が愛したとされる白河の地の風光明媚な景観は、現在の岡崎エリアの静謐な雰囲気の中にその名残を留めている。円勝寺を含む六勝寺の研究は、院政期の政治構造や宗教観を理解する上で不可欠な要素として、今なお歴史学や考古学の分野で重要な位置を占めている。