全真教
全真教は、12世紀の華北で王重陽が創始した道教の出家教団である。儒・仏・道の「三教合一」を掲げ、清静・禁欲・内丹修養を重視しつつ、坐忘・存想・持誦などの実践を体系化した。俗家の祭祀運営に強い正一系と異なり、出家共同体と厳格な清規を持つ点が特色である。七真と称される高弟群(丘処機・馬丹陽・譚処端・劉処玄・王処一・郝大通・孫不二)が各地で教団を拡げ、金・元代には国家的保護のもとで宗教行政にも参与した。北京の白雲観は今日まで本山的地位を担い、龍門派を中心とする継承が近世以降の展開を方向づけた。
成立と歴史的背景
全真教は、北宋末から金代にかけての社会不安と宗教再編の文脈で生まれた。創始者王重陽は終南山での隠棲と苦行を経て教義を整え、清規と戒律を核に出家者集団を組織した。高弟の丘処機は1219年に西行し、1222年にモンゴルの君主と会見して禁酒・殺生抑制を諫め、以後、元廷の保護を獲得して都城の観院運営や度牒管理に関与した。こうして全真教は、出家主義を保ちつつも国家との調和を図る制度宗教として確立した。
教義と実践の特徴
- 出家と清規:酒・色・財・気を戒め、衣食住・作務・坐禅の規範を日課化する。
- 内丹・養生:呼吸調整、存想、導引を組み合わせ、身心の精・気・神を錬る理論を重視する(典籍は道蔵に収められる)。
- 三教合一:孝・忠・仁の倫理を受容し、仏教の禅観・戒律運用を折衷して独自の修道生活を整える。
- 在俗関与の抑制:斎醮や呪禁よりも修養と説法を重視し、社会的救済は倫理教化を通じて担う。
七真と系譜
王重陽の七弟子は教団拡大の中核であった。なかでも丘処機は組織統括と王権交渉に長じ、馬丹陽・譚処端・劉処玄・王処一・郝大通は華北各地に道院網を築いた。女性道士の孫不二は貞潔と修養の規範を体現し、女性修道の範例とされた。後世、龍門派が戒律・入門儀礼・師資相承を整序して継承の幹線となり、清代には度牒制度の下で統一的な授箓体系が再整備された。
金・元代の展開
全真教は金朝下で観院の拠点化を進め、元代には都城の白雲観を中心に宗教行政の一翼を担った。観院は僧院と同様に経蔵・斎堂・方丈・禅堂を備え、修行と講経・教化を両立させた。仏教との相互競合はあったが、国家は宗教秩序の安定を重視し、在俗の祈禱・科儀に強い正一系と、出家清規を旨とする全真教を地域と機能で分担させた。道士の資格と帳籍は整序され、都市・農村双方で宗教的公共性が高められた(関連:道士、道観)。
明清以降の変容
明代には在俗性の強い正一道が国家祭祀の中枢を占める一方、全真教は北方を中心に清規と内丹を磨き、講経と師資相承で信望を維持した。清初には龍門派が再編を主導し、受戒規範・道具・服制・等級を明確化して組織的復興を果たした。都市部では説法・講学、郷村では倫理教化と養生実践が普及し、近現代に至るまで白雲観は儀礼・教育・文化財保護の拠点として継続している。
制度・寺院・典籍
教団は入門・授戒・住持任命などの儀礼を整え、観院の経済は田地・寄進・印施に依拠した。典籍は金丹・養生・清規・伝記を含み、教理と実践の往還を映す。寺院空間は法堂・斎堂・寮舎が中軸に配され、坐禅と作務が日課の骨格を成した。制度史の比較には、張道陵に始まる五斗米道から正一道へ続く系譜(張陵・五斗米道・天師道・新天師道)を参照するとよい。
思想史上の位置づけ
全真教は、俗的救済と共同体運営に長じた正一系に対し、出家清規と内面的修養を軸に道教の近世的形態を提示した。三教合一の語りは倫理規範の共有基盤を築き、仏教禅法の受容は静坐・止観の洗練をもたらした。古来の方術・符籙のみに依らず、身心の錬成と倫理の涵養を宗教性の中心に据えた点に革新がある。中国思想史の広い座標に置けば、戦国の諸学から続く思想資源の再編として理解でき、国家・都市・民間の各層に適合する柔軟な秩序形成のモデルを示した(参照:諸子百家)。