元代の科挙
元代の科挙は、モンゴルによる征服統治の下でいったん停止されたのち、仁宗(アユルバルワダ)のもと延祐期に再開された官吏登用制度である。再開後は四等人制に基づく厳格な定員配分と榜(名簿)の分離が施され、宋の文治と異なる選抜ロジックが導入された。科目は経義と策問を中心に、朱子学の解釈を標準とし、郷試・会試・殿試の段階を踏む点では前代と連続性を保ったが、身分・地域配分の管理が制度の核心に据えられた。
成立背景―停止から再開へ
モンゴル帝国の拡大と制度併存の過程で、文人登用は推挙・功績任用・学校出身など多径路化したため、科挙は長く実施されなかった。だが漢地統治の安定化にともない、儒学知を統治言語として再整備する必要が高まり、仁宗期に試験法と学制が再編され再開に至った。前代の宋にみられる学問官僚の伝統を部分的に回復しつつも、元は征服王朝として独自の枠組みを付加した。
再開の経緯と枠組み
延祐年間に試験規則と出題範囲が整備され、まず各路の郷試、ついで京師での会試、最終の殿試へと進む段階制が復活した。再開の意義は、単に登用門戸を開くことではなく、学術基準の国家的統一と人材管理の「可視化」を図った点にある。とくに省庁横断の官僚序列に合流させるため、試験成績と初任品階の連動が制度化された。
身分区分と定員制―四等人制と榜の分離
受験者は蒙古・色目・漢人・南人の四等に区分され、各段階で厳格な定員が設けられた。会試では合格者総数が少数に抑えられ、各等から均等枠が割り当てられたほか、榜を左右に分けて名次を掲示する運用も行われた。これにより人口規模の大きい漢人・南人層は相対的に狭い門戸となり、特権層の再生産と多民族統治の均衡維持を同時に志向する制度設計となった。
試験科目と学術標準
出題は経義の解釈と策問を核とし、学術標準は程朱学派(朱子学)に整えられた。詩賦偏重を抑え、経典理解と政策立案の筆答力を評価軸とすることで、行政実務への接続を強めた点に特色がある。答案は漢文で作成され、条理の明晰さと典拠運用が重視された。こうした基準は後代の明清にも継承され、中国官僚知の共通規範を形成した。
段階構成―郷試・会試・殿試
郷試は各路における基礎選抜で、地方の学統と学舎の蓄積が反映しやすい。会試は中央での合議選抜であり、四等人の配分管理が最も厳密に作用した。最終の殿試は皇帝臨御の形式で名次を定め、進士科としての序列を確定する。三段階の連結は前代以来の通則だが、元では各段での配分管理が制度の重心となった。
学校・儒戸・推挙―併存する登用ルート
元では科挙のほか、国子監・翰林院など学校・学官系の登用、儒戸の登録を媒介とした取り立て、王侯・有力者による推挙、軍功からの転任など多様なルートが併存した。再開後もこれらは有効で、科挙は数ある選択肢のうち高位直結の狭き門として機能した。登用多径路という特徴は、隋唐以来の推挙制や郷挙里選、魏晋以降の九品中正の伝統と響き合う。
地域配分と政治意図
配分は帝国北部と中枢近傍を相対的に厚遇し、江南を含む南部には抑制的であった。これは征服王朝としての統合戦略と、異文化・異言語の行政統合コストを勘案した政策的配慮である。科挙が単なる学力競争でなく、広域秩序を操作する統治技術として設計されていたことを物語る。
合格者の地位と官僚序列
進士の初任は従八~従六品など優遇が与えられた一方、定員が極小のため総数は少なく、吏員からの叙進や推挙登用が官僚層の裾野を支えた。成績優秀者は翰林・国史館・詔勅起草など文治中枢に進み、科挙の象徴資本が朝廷儀礼や政策形成に波及した。
知の統一と文化的帰結
元代再開科挙の最大の意義は、典籍解釈の標準化と国家学術の再編であった。朱子学的読解枠の普及は、科挙教育と学術出版を通じて学知の共通語を提供し、江南・江北を跨ぐ儒教的教養圏を作り直した。これは明初の制度設計に継承され、以後の文治国家の骨格を規定した。
帝国統治と交通秩序との関係
科挙の再開は人材の流動と都城集積を促し、駅伝・海運・運河網など帝国交通と相互補強した。遠征・朝貢・税運を結ぶ帝国インフラの上に、文人の往来と試験経済が重層した点も見逃せない。広域秩序構築という観点では、軍事・外交・交易を論じる元の遠征活動や朝貢の制度史と連動して理解されるべきである。