会計官
会計官(かいけいかん)とは、明治維新期の初期において、新政府の財政、租税、貨幣、および金融事務を統括した中央官庁である。1868年(慶応4年)2月の三職七科制の導入により、それまでの会計事務局を改組して設置された。激動の戊辰戦争に伴う莫大な軍費の調達や、旧幕府から引き継いだ破綻寸前の国家財政を立て直すという極めて困難な任務を担った。のちに太政官制の変遷を経て、1869年(明治2年)の官制改革により大蔵省へと発展的に解消されることとなるが、日本近代財政の骨格を形成するうえで先駆的な役割を果たした機関である。
会計官の創設と初期の官制
1868年1月の王政復古の大号令により発足した新政府は、当初「三職」と呼ばれる総裁・議定・参与の職制を置いた。これに付随して実務を分担する事務局が設置され、その一つとして財政を担う会計事務局が誕生した。同年2月にこれを改称して成立したのが会計官である。当初の組織形態は試行錯誤の連続であり、公家や諸藩の有力者が長官(知事)に就任したものの、実務の多くは財政に明るい下級武士や徴士たちが担った。この時期の政府は、固有の領土や確実な歳入源を十分に確保できておらず、旧幕府直轄地(天領)の接収を進めながら、当面の運営資金を豪商からの献金や借款に頼らざるを得ない脆弱な基盤の上に立っていた。
政体書体制下の役割
1868年(慶応4年)閏4月に公布された政体書に基づき、新政府は権力分立を意識した太政官制(七官)を採用した。この新体制下で会計官は、行政官、神祇官、軍務官、外国官、刑法官、民部官と並ぶ七官の一つとして位置づけられた。その所掌事務は多岐にわたり、租税の徴収、国家予算の策定、貨幣の鋳造、度量衡の管理、そして外国貿易の監督までを含んでいた。特に戊辰戦争の戦域が拡大するにつれ、前線への兵糧供給や武器購入のための資金手当てが最優先課題となり、会計官は事実上の戦時経済司令部としての側面を強めていった。この過程で、地方財政を統括する民部官との職域争いも生じるようになり、これがのちの民部省と大蔵省の合併・分離騒動へと繋がっていくこととなる。
由利公正と太政官札の発行
会計官の歴史において最も特筆すべき政策は、由利公正の主導によって断行された「太政官札」の発行である。財政難に直面した新政府は、金銀の保有量に関わらず流通させる不換紙幣の発行を計画した。由利は福井藩での経験を活かし、国内経済の活性化と政府資金の確保を目的として、1868年5月に日本初の全国通用紙幣である太政官札を発行した。しかし、政府の信用が低かったことや、偽造札の横行、激しいインフレーションの発生により、国民の間には強い不信感が広がった。会計官はこの混乱の責任を問われる形となり、由利は失脚することとなるが、この大胆な金融政策は、近世的な貨幣制度から脱却し、近代的な中央集権的財政を構築しようとする歴史的な試みであったと言える。
大隈重信の台頭と組織の拡大
由利公正の退陣後、会計官の実務を主導したのは肥前藩出身の大隈重信であった。大隈は英国人技師ウォートルスらを招聘し、大阪に造幣局を建設する計画を推進するなど、貨幣制度の近代化に注力した。また、大隈は各藩の財政状況を把握し、全国的な税制の統一を図るために、地方行政を統括する民部官との連携を強化した。この時期の会計官は、単なる金庫番の役割を超え、国家全体の経済ビジョンを提示するシンクタンク的な機能を持ち始めた。大隈の合理的かつ強力なリーダーシップにより、それまでバラバラであった各省庁の会計報告が統合され、近代的な予算制度の雛形が形作られていったのである。
主要な事務組織と業務内容
会計官の内部には、具体的な業務を遂行するために以下のような下部組織が設置されていた。
- 金札場:太政官札の発行、管理、および引換業務を担当。
- 造幣局:近代的な貨幣鋳造の準備と、貨幣制度の統一を推進。
- 租税司:全国の直轄地からの税収管理と、新税制の検討。
- 商法司:通商司の前身であり、勧業および外国との貿易事務を担当。
これらの組織は、のちに設置される省庁の局や課のモデルとなった。例えば、租税司はのちの大蔵省租税局へと引き継がれ、版籍奉還後の地租改正に向けた基礎的な調査を継続することになる。このように、会計官は単発的な組織ではなく、日本の官僚機構の連続性を支える重要な結節点であった。
会計官から大蔵省への移行
1869年(明治2年)7月、新政府はより強力な中央集権体制を確立するため、官制の抜本的な改革(二官六省制)を実施した。これにより、会計官は廃止され、新たに設置された「大蔵省」へとその機能が全面的に継承された。発足当初の大蔵省は、民部省と合併して「民部大蔵省」と呼ばれた時期もあり、財政と民政の両面を掌握する巨大官庁となった。会計官が手がけた不換紙幣の整理や、藩債の処理、そして統一的な貨幣法の策定といった課題は、そのまま大蔵省の最優先課題として引き継がれた。結果として、会計官の1年半にわたる活動は、明治政府が「財政的な自立」を獲得するための極めて重要な助走期間であったと評価される。
| 名称 | 設置時期 | 主な主導者 | 主な功績・出来事 |
|---|---|---|---|
| 会計事務局 | 1868年1月 | 松平慶永 | 王政復古直後の財政担当 |
| 会計官 | 1868年2月 | 由利公正、大隈重信 | 太政官札発行、造幣局設置準備 |
| 大蔵省 | 1869年7月 | 伊達宗城 | 近代財政制度の確立、地租改正 |
会計官の歴史的評価
歴史学的な観点から見れば、会計官は「革命期の臨時政府」による財政運営の苦闘を体現している。十分な徴税権を持たないまま戦費を捻出するために、由利公正らが行った紙幣発行は、後のインフレを招いたものの、新政府が崩壊せずに戊辰戦争を勝ち抜くための命綱となったことは否定できない。また、この時期に培われた大隈重信らの官僚的な実務能力は、のちの明治14年の政変に至るまで、政府の中枢を支える原動力となった。会計官という組織は短命であったが、そこで試行された政策や組織運営のノウハウは、現代の日本における財務行政の源流となっているのである。