伊藤野枝
伊藤野枝(いとう のえ)は、明治から大正にかけて活動した日本の婦人解放運動家、作家、そしてアナキスト(無政府主義者)である。1895年(明治28年)に福岡県で生まれ、封建的な家族制度や社会慣習に真っ向から異を唱え、自由な生と愛を貫いた女性として知られている。平塚らいてうから文芸雑誌『青鞜』の編集を引き継ぎ、従来の良妻賢母思想を否定して女性の覚醒を促すとともに、後半生では大杉栄との活動を通じてアナキズム運動の象徴的な存在となった。その激動の生涯は、1923年の関東大震災直後に発生した甘粕事件によって、28歳という若さで悲劇的な幕を閉じることとなったが、彼女が遺した思想と著作は現代のフェミニズムや社会運動においても重要な位置を占めている。
幼少期と上野高等女学校時代
伊藤野枝は1895年、福岡県糸島郡今宿村(現在の福岡市西区)の貧しい商家の家に長女として誕生した。幼少期から聡明であった彼女は、親戚の援助を受けて東京の上野高等女学校(現在の上野学園高等学校)へ進学する。この学生時代、伊藤野枝は英語教師であった辻潤と出会い、文学や哲学への関心を深めていった。卒業後、実家によって強制された政略結婚から逃れるために家出を敢行し、辻潤のもとに身を寄せた出来事は、彼女が社会の因習に反旗を翻す最初の大きな一歩となった。この時期の伊藤野枝は、イプセンの『人形の家』におけるノラの生き方に共感し、個人の自由と独立を何よりも重視する精神を培っていったのである。
『青鞜』の継承と編集長としての葛藤
1912年、伊藤野枝は日本初の女性による女性のための文芸誌『青鞜』に加入した。当初は若き投稿者の一人であったが、その情熱と才能が認められ、創始者である平塚らいてうから編集権を譲り受けることになる。伊藤野枝が編集長となった後の『青鞜』は、それまでの文芸的な色合いから、より直接的な社会批評や婦人問題、貞操論争などを扱う過激な媒体へと変容していった。彼女は、結婚制度の矛盾や中絶の是非、さらには売春問題について大胆に論じ、世間からの激しいバッシングを浴びながらも、女性が一個の人間として自律するための議論を展開し続けた。しかし、資金難や政府の検閲強化により、1916年に『青鞜』は休刊を余儀なくされるが、そこでの活動は伊藤野枝を思想家として成長させる重要な糧となった。
大杉栄との出会いと「自由恋愛」の波紋
『青鞜』休刊後、伊藤野枝は社会主義運動のリーダーであった大杉栄と出会い、急速に距離を縮めていく。当時、大杉には妻の堀保子と恋人の神近市子がいたが、伊藤野枝は彼との「自由恋愛」を公言し、四角関係の渦中に身を投じた。この関係は、1916年に神近が大杉を刺傷する「日蔭茶屋事件」へと発展し、社会に大きな衝撃を与えた。世論から激しく指弾され、孤立無援の状態に陥りながらも、伊藤野枝は大杉との生活を選び、彼とともに本格的な社会主義およびアナキズムの研究と実践に没頭するようになった。彼女にとって恋愛とは、単なる男女の情愛ではなく、国家や道徳といった既成の権威から自己を解放するための闘争の一環でもあったのである。
アナキズム運動への傾倒と闘争
伊藤野枝は大杉栄の伴侶として、また一人の独立した革命家として、労働運動の支援や翻訳活動に励んだ。ゴールドマンの著作を紹介し、国家や資本による抑圧のない自由な社会の実現を夢見た。彼女は多くの子どもを育てながら、極貧の生活の中でペンを握り続け、女性労働者の現状や農村の疲弊を鋭く批判する論考を数多く発表した。伊藤野枝の筆致は鋭く、妥協を許さないものであり、当時の治安警察法による厳しい監視下においても、その活動を緩めることはなかった。彼女にとって、女性の解放は社会構造そのものの変革、すなわちすべての階級と権力の廃絶なしには成し遂げられないという信念が、活動の根底にあった。
関東大震災と甘粕事件の悲劇
1923年(大正12年)9月1日、関東大震災が発生し、東京は壊滅的な被害を受けた。混乱が続く9月16日、伊藤野枝は大杉栄、そして大杉の甥である橘宗一(当時6歳)とともに、憲兵隊特務曹長であった甘粕正彦らによって連行された。これが後に、大正デモクラシーの終焉を象徴する悲劇として語り継がれる甘粕事件である。三人は憲兵隊司令部において虐殺され、その遺体は古井戸に遺棄された。震災の混乱に乗じた国家権力による白昼堂々の抹殺行為は、当時の知識人や運動家に戦慄を与えた。伊藤野枝は、わずか28歳という若さでその苛烈な生涯を閉じることとなったが、権力に屈せず、自らの意志を貫き通したその姿は、後の世代に強烈な印象を残した。
伊藤野枝の年譜と著作
伊藤野枝の生涯を理解する上で重要な出来事と著作を以下の通りにまとめる。彼女の活動は短期間であったが、その密度は極めて高く、文芸、翻訳、社会批評と多岐にわたる功績を残している。
- 1895年:福岡県今宿村に生まれる。
- 1912年:『青鞜』に参加し、処女作『動揺』を発表。
- 1915年:平塚らいてうの後を継ぎ、『青鞜』の編集・発行人となる。
- 1916年:大杉栄との同居生活を開始。エマ・ゴールドマンの『婦人解放の悲劇』を翻訳。
- 1923年:甘粕事件により死去。
| 著作種別 | 主な作品・論文 |
|---|---|
| 小説 | 『雑草』『惑い』『転機』 |
| 論文・随筆 | 『新しき女の道』『貞操論』『婦人解放の根本的問題』 |
| 翻訳 | 『婦人解放』『少数と多数』 |
現代における評価と再考
伊藤野枝の思想は、没後長らく忘却の淵にあったが、1960年代後半から70年代にかけての「ウーマン・リブ」運動の高まりとともに再び注目を集めるようになった。彼女の「自我の解放」を叫ぶ叫びは、現代の格差社会やジェンダー平等をめぐる議論においても驚くほど瑞々しい説得力を持っている。伊藤野枝が戦った相手は、単なる法制度ではなく、人々の心に深く根を張った「当たり前」という名の偏見であった。彼女が命をかけて守ろうとした「自由」の意味を問い直すことは、現代を生きる我々にとっても、国家や組織の中での個人の在り方を考える上で不可欠な作業となっている。瀬戸内寂聴の『余白の春』や村山由佳の『風よ あらしよ』といった文学作品においても、その鮮烈な生き様は描き継がれている。