伊弉冉尊|万物を生み落とし黄泉を統べる母神

伊弉冉尊|国生みと神生みを司る日本神話の母神

伊弉冉尊(いざなみのみこと)は、日本神話に登場する創造神であり、伊弉諾尊とともに日本の国土や八百万の神々を生み出した女神である。

天地開闢と国生みの事績

伊弉冉尊は、神世七代の最後に伊弉諾尊とともに現れ、天の浮橋から天の沼矛を振り下ろして「おのころ島」を造ったとされる。二柱の神はこの島に降り立ち、結婚の儀式を経て、淡路島をはじめとする日本の島々を次々と生み出す国生みを成し遂げた。この神話は、日本の国土形成を象徴する重要な物語として『古事記』や『日本書紀』に記されている。

神生みと火神の誕生

国土を完成させた後、伊弉冉尊は山、海、木、草といった自然を司る多くの神々を生む神生みを行った。しかし、火の神であるカグツチを生んだ際に女陰を火傷し、それが原因で命を落としてしまう。彼女の死の間際や遺体からも多くの神が誕生しており、死してなお万物を生成する生命力の豊かさが描写されている。

黄泉の国と夫婦の決別

亡くなった伊弉冉尊を連れ戻すため、伊弉諾尊は死者の世界である黄泉の国へと向かった。伊弉冉尊は地上へ戻るために黄泉の神と相談する間、姿を見ないよう夫に頼んだが、伊弉諾尊は約束を破って彼女の腐敗した姿を見てしまう。これを恥じた伊弉冉尊は怒り、夫を追いかけたが、最終的に黄泉比良坂で二柱は永遠の離別を宣言した。

生と死の秩序の確立

離別の際、伊弉冉尊は「あなたの国の人間を毎日千人殺そう」と呪いをかけ、伊弉諾尊は「ならば私は毎日千五百人の産屋を建てよう」と返した。この問答によって、この世に寿命という概念が生まれ、人口の増加と死による入れ替わりの秩序が確立されたとされる。彼女は黄泉津大神として死の国を支配する存在となり、生を司る夫と対照的な役割を担うこととなった。

信仰と祀られている神社

伊弉冉尊は、創造の母神としての側面と、死を司る側面の両方を併せ持つ神として、現代でも多くの神社で祭神として祀られている。

  • 伊弉諾神宮(兵庫県):夫である伊弉諾尊とともに祀られる。
  • 多賀大社(滋賀県):「お多賀さん」として親しまれ、延命長寿の神として信仰を集める。
  • 白山比咩神社(石川県):菊理媛神とともに、縁結びの神として知られる。
  • 熊野速玉大社(和歌山県):熊野権現の一柱として、古くから厚い信仰を受けている。

日本文化への影響と文学的意義

伊弉冉尊にまつわる物語は、単なる起源神話にとどまらず、日本人の死生観や、汚れを忌む思想の根源となっている。特に黄泉の国でのエピソードは、ギリシャ神話のオルフェウス伝説など世界各地の神話と共通する構造を持ちつつ、最終的に生と死の調和を説く日本独自の展開を見せる。また、彼女の存在は後代の文学や芸術においても、母性や怨霊、あるいは再生の象徴として繰り返し描かれてきた。

考古学的・歴史的視点

伊弉冉尊という神名は、「誘う(いざなう)」という言葉に由来するとされるが、歴史学的には、特定の古代豪族の祭祀が記紀編纂の過程で統合された姿であるという説もある。彼女が火の神によって命を落とす描写は、古代における製鉄や焼畑農業、あるいは出産という行為に伴う危険性を象徴的に表現しているとも考えられており、当時の社会背景を映し出す貴重な資料となっている。