五胡十六国|匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の戦乱の世

五胡十六国

五胡十六国(304ー439年)は、匈奴によるの建国から北魏の華北統一までに、華北で興亡した五湖の13国と漢人の3国の総称である。五胡とは、西晋の滅亡後に台頭した、匈奴・羯・鮮卑・氐・羌の5つの民族をいう。五胡の諸民族は、その強大な軍事力で政権をうちたてたが、長続きはせず、前後130年間に、華北では漢人がたてた政権を含めて20に達する諸国が興亡をくりかえした。そのうちの代表的な16の国にもとづいて、この時代を五胡十六国時代と呼ぶ。

目次

魏の滅亡

魏の皇帝、曹丕(文帝)が死去すると、相続争いが起こり、衰退する。そこに乗して、司馬氏が台頭し、を滅ぼすと、2年後、司馬炎(武帝、位265~290)が皇帝の位について西晋(265~316)を建国した。280年には江南の呉を滅ぼして中国を統一した。

武帝

武帝は、安定した政権を目指し、血縁上の一族を各地に王として派遣し、軍事権を与えたが、地方の独立性を強めたため、皇帝の権力を弱めることになった。

恵帝

武帝の次に恵帝が即位すると、地方の諸王は外戚の政権争いに乗じて皇帝の後継者をめぐる八王の乱をおこした。加えて官僚は、清談(実際の役に立たない議論)をたたかわせて国家の危機的状況をかえりみない風潮が起こる。

八王の乱

八王の乱とは、恵帝(位290~306)のときにおこった権力争いである。まずは皇后の賈后とその一族が、次南王・楚王を利用して実権を握ったが、これに対し、覇権を争っていた趙王は、賈后を滅ぼし、恵帝を退位させた。さらに一転、斉王・長沙王・成都王・河間王が趙王を討ち、結局は、306年、東海王が懐帝を擁立して実権を握った。この内乱で国力を消耗させたにもかかわらず、諸王が北方諸民族の軍事力を利用したため、北方諸民族は台頭することとなる。

永嘉の乱

永嘉の乱とは316年、遊牧民族の匈奴が西晋を滅ぼした戦争である。後漢の時代から服属してきた匈奴は、漢民族とは異なる遊牧を中心とする生活をおこなっていた。また、匈奴は軍事的に優勢となり、都の洛陽を攻略し、長安も攻めて皇帝を捕虜にした。ここに西晋が滅亡することとなる。

東晋

匈奴に追われた司馬氏の王族の司馬睿(元帝、位317~322)は、江南に逃れて、317年かっての呉の都であった建業(建康と改称)で皇帝の位につき、晋を復興した。これを統一時代の晋(西晋)と区別して東晋(317~420)という。

華北では、まず匈奴に続き、羯(けつ)が政権をたてた。

鮮卑

2世紀の中ごろより中国の北辺を脅かしていた鮮卑族も長城をこえて侵入し、政権をうちたてた。

羌族も、それぞれ勢力を拡大して政権をたてた。

前秦

前奏(351ー394)とは、陝西から甘粛にかけて生活していた西方系の氐族の族長苻健によって建てられた国家で長安に都をおいた。長江以北を支配下に入れ、3代苻堅の時、一時的に華北を統一した。さらに中国統一をめざして南下したが、383年の東晋との肥水の戦いで敗れ、これを契機に前秦は崩壊、6代で滅んだ。

五胡十六国

五胡十六国の時代、五胡(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌)の諸民族や華北でおこった漢人の政権も含めて、軍事力を背景に中国大国を制圧しようとしたが、長くは続かなかった。

北魏の統一

群雄割拠の分裂状態の五胡十六国時代を終焉させたのは、439年、鮮卑の拓跋氏がたてた北魏の太武帝(位423~452)によってである。その後、北魏は、中国支配を本格させ、鮮卑人の姓を漢人風に改めさせ、鮮卑の服装や言語を禁止するなど、徹底した漢化政策を推し進めた。

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