五日市学芸講談会|五日市憲法を育んだ明治の学習結社

五日市学芸講談会

五日市学芸講談会は、明治時代初期の神奈川県西多摩郡五日市(現在の東京都あきる野市)において、地域の豪農や知識人層を中心に結成された学習・政治結社である。1880年代の日本で巻き起こった自由民権運動の熱気の中で、地方の一村落でありながら高度な法学的・政治学的議論を展開し、後の「五日市憲法草案」の成立基盤となったことで知られる。本会は単なる親睦団体に留まらず、学問を通じて民権の伸長と地方自治の自立を模索した、当時の地方知識層の知的水準を示す極めて重要な歴史的遺構である。

五日市学芸講談会の成立背景と時代的文脈

五日市学芸講談会が成立した背景には、幕末から明治初期にかけての多摩地域における経済的発展と、それに伴う知識層の台頭がある。当時の多摩地域は製糸業や林業が盛んであり、経済的な余裕を得た名主層や富農は、子弟の教育や学問への投資を惜しまなかった。1870年代後半から、日本各地では国会の開設や憲法の制定を求める運動が激化しており、こうした全国的な潮流が五日市の地にも波及したのである。1880年には、深沢権八を中心とした地元の有力者たちが、学問を深め時事問題を論じる場として五日市学芸講談会を正式に発足させた。この時期、多摩一帯は「民権の村」と呼ばれるほど政治活動が活発であり、近隣の村々でも同様の結社が数多く誕生していたが、その中でも五日市学芸講談会は、その継続性と議論の質の高さにおいて群を抜いていた。

主要メンバーと千葉卓三郎の招聘

五日市学芸講談会の活動を支えたのは、地元五日市の豪農である深沢権八や内山安兵衛、土屋助右衛門らであった。彼らは私財を投じて書籍を購入し、外部から優れた講師を招くことで、地方にいながら最先端の知識を吸収しようと試みた。その中で最も重要な人物が、宮城県出身の志士・教育者である千葉卓三郎である。千葉は放浪の末に五日市の勧能学校に教師として赴任し、五日市学芸講談会の中心的な指導者となった。千葉は国学、漢学のみならず、キリスト教や西洋の法思想にも通じており、彼の指導の下で会員たちは、J.S.ミルやルソーといった西洋思想家の著作を輪読し、人権や国家のあり方について深い討論を重ねた。五日市学芸講談会は、千葉という優れた知性と、それを支えた地元の熱意ある有力者たちの共同作業の場であったといえる。

学術活動と討論の内容

五日市学芸講談会における活動の核は、定期的に開催される講読会と討論会であった。会員たちは単に教養を身につけるだけでなく、現実の政治課題に対する自らの見解を磨くことを目的としていた。取り上げられたテーマは多岐にわたり、租税制度の改革から地方自治の権限、さらには男女平等の権利に至るまで、当時の最先端かつ急進的な内容が含まれていた。特に注目すべきは、彼らが「民約論」などの翻訳書を通じて、主権在民の概念を真剣に検討していた点である。五日市学芸講談会での議論は、単なる知識の受け売りではなく、自分たちの生活圏である多摩の現実に照らし合わせた主体的なものであった。このような地道な議論の積み重ねが、後に政府の独裁を排し、国民の権利を最大限に保障しようとする高度な憲法構想へと結実していくことになる。

五日市憲法草案の起草と発見

五日市学芸講談会の活動における最大の成果は、一般に「五日市憲法(日本憲法見込案)」と呼ばれる私擬憲法の作成である。1881年、千葉卓三郎を中心に起草されたこの草案は、全204条からなり、そのうちの約7割が国民の権利(人権)に関する規定に割かれているという、当時としては驚異的に民主的な内容であった。逮捕の正当な手続きや信教の自由、教育の自由などが明記されており、大日本帝国憲法と比較しても遜色のない、あるいはそれを凌駕する先駆的な思想が盛り込まれていた。この草案は、長らく深沢家の土蔵に眠っていたが、1968年に歴史学者の色川大吉によって発見され、世に知られることとなった。五日市学芸講談会という小さな学習集団が、これほどまでに完成度の高い憲法草案を練り上げていた事実は、戦後の日本史研究に大きな衝撃を与え、地方における民権運動の再評価を促した。

地域社会への影響と教育的役割

五日市学芸講談会は、政治的な結社としての側面のほかに、地域教育の振興という重要な役割も担っていた。会員たちは自らの学習成果を地域住民に還元すべく、公開の演説会を開催し、啓蒙活動に努めた。これにより、五日市周辺の住民の間には、自らの権利を自覚し、公的な問題に主体的に関わろうとする市民意識が育まれた。当時の五日市では、農民層の間でも新聞や雑誌を読み、国政について議論することが珍しくなかったと伝えられている。五日市学芸講談会が育てた知的な土壌は、明治政府による弾圧が強まった後も、地域の精神的支柱として長く残り続けた。また、彼らが収集した膨大な蔵書や記録は、後に「深沢家文書」として整理され、明治期の地方社会の実態を伝える貴重な一次史料となっている。

結社の衰退と歴史的評価

1880年代半ば、明治政府による集会条例の強化や大同小異運動の挫折、そして松方デフレによる農村経済の疲弊により、五日市学芸講談会の活動も次第に縮小を余儀なくされた。中心人物であった千葉卓三郎も若くして病没し、会は組織的な活動を終焉させた。しかし、五日市学芸講談会が残した足跡は消えることはなかった。現代において、本会は日本の民主主義の源流を地方に見出す象徴的な事例として高く評価されている。権力の中心から遠く離れた山間の村で、普通の人々が知恵を絞り、理想の国家像を追求した過程は、現代の主権者教育や地方創生の観点からも多くの示唆を与えている。五日市学芸講談会の歴史は、自由への渇望と学問への真摯な姿勢が、いかに強固な社会的紐帯を形成し得るかを証明している。

以下のリストは、五日市学芸講談会が関与した主な活動領域と関連概念である。

  • 西洋法思想の研究と翻訳書の講読
  • 地方自治の強化を目指す行政提言
  • 私擬憲法起草に向けた条文案の比較検討
  • 地域住民を対象とした公開学術演説会の開催
  • 他地域の民権結社との情報交換および連携

これらの活動を通じて、五日市学芸講談会は近代日本の草の根民主主義を形作る重要な一翼を担った。