乙巳保護条約
**乙巳保護条約**は、1905年(明治38年)11月17日に大日本帝国と大韓帝国の間で締結された条約であり、一般に第二次日韓協約として知られる。この条約の締結により、韓国は外交権を完全に喪失して日本の保護国となり、国内には京城(現在のソウル)を拠点とする統監府が設置された。日露戦争における日本の勝利を背景に、欧米列強の黙認の下で強行されたこの措置は、韓国の主権を段階的に奪い去り、1910年の韓国併合へと至る決定的な道程を築いた。本条約の有効性を巡っては、強迫による締結や手続きの不備を理由とする無効論が今日まで歴史的・法的な論争の焦点となっている。
日露戦争後の国際秩序と日本の優越権
**乙巳保護条約**が結ばれる直前の東アジアでは、日露戦争の結果を受けて日本の覇権が確定しつつあった。1905年9月に調印されたポーツマス条約において、ロシアは日本の韓国に対する政治・軍事・経済上の卓越した利益を認めた。これに先立ち、日本はアメリカとのタフト・カツラ協定やイギリスとの第二次日英同盟を通じて、韓国に対する日本の指導権を国際的に認めさせる外交工作を完了させていた。孤立を深めた大韓帝国は、自主的な独立維持を模索したが、日本側は大陸進出の拠点を盤石にするため、韓国の主権を根本から制限する保護国化の断行を急いだのである。
条約締結の強行と乙巳五賊
1905年11月、日本の特派大使として派遣された伊藤博文は、高宗皇帝に対して条約案の受諾を執拗に迫った。交渉の場には日本軍が配置され、武力による威圧が漂う中で御前会議が進められた。高宗は健康上の理由などを挙げて最終的な署名を拒み続けたとされるが、最終的には外部大臣の朴斉純ら5人の閣僚(李完用、権重顕、朴斉純、李根澤、李址鎔)が賛成に転じ、条約が成立した。これら5名は、後に韓国国民から「乙巳五賊」と呼ばれ、売国奴の象徴として長く憎悪の対象となった。この強引な締結プロセスは、**乙巳保護条約**が国際法上の正式な合意として成立していたかという現代の議論において、主要な論拠の一つとなっている。
統監府の設置と外交権の喪失
**乙巳保護条約**の最大の特徴は、大韓帝国の外交関係を東京の外務省が完全に管理・指揮することとした点にある。これにより、韓国が他国と独自の条約を結ぶことは禁止され、海外に設置されていた韓国公使館も次々と閉鎖された。また、条約に基づき設置された統監府は、外交事務の管理のみならず、実質的に韓国の内政全体に対して強力な介入権限を持つ機関となった。初代統監に就任した伊藤博文は、施政の改善を名目に警察権や司法権の掌握を進め、韓国を事実上の植民地支配下に置く体制を構築した。この段階で、韓国は独立国家としての実質をほぼ失うこととなったのである。
反対運動とハーグ密使事件
条約の締結直後から、韓国国内では全国的な規模で激しい抗議運動が展開された。言論界では張志淵が新聞『皇城新聞』に「是日也放声大哭(この日、声を放って大いに泣く)」という社説を掲げ、条約の不当性を強く訴えた。また、地方では旧軍人や農民による義兵闘争が激化し、日本軍との間で激しい武力衝突が繰り返された。高宗もまた、国際社会に条約の無効を直訴するため、1907年にオランダのハーグで開催された第2回万国平和会議へ密使を派遣した。これがハーグ密使事件であるが、列強諸国は日本の立場を支持し、密使は会議への参加を拒まれた。この事件は、日本が韓国の統治をさらに強化し、高宗を強制退位させる口実となった。
韓国併合への進展と歴史的帰結
**乙巳保護条約**による保護国化は、日本にとって朝鮮半島を完全に領有するための準備段階であった。1907年の第三次日韓協約を経て、行政権や軍事解散が強行され、韓国の国家機能は骨抜きにされていった。1909年に安重根によって伊藤博文が暗殺されると、日本国内では併合論が急速に高まり、翌1910年の韓国併合条約の調印により、大韓帝国は完全に消滅した。**乙巳保護条約**は、明治維新以降の日本の対外拡張政策における一つの到達点であり、同時にその後の長い植民地支配の起点となった。1965年の日韓基本条約において、この条約を含む過去の条約は「もはや無効」と定義されたが、その解釈を巡る認識の乖離は依然として残っている。
条約の主な内容
| 条項 | 概要 |
|---|---|
| 第1条 | 日本の外務省が韓国の外国に対する関係および事務を監理・指揮する。 |
| 第2条 | 日本の中介を経ることなく、韓国政府がいかなる国際的条約も締結しないことを約する。 |
| 第3条 | 韓国皇帝の下に日本政府の代表者として統監(Resident General)を置く。 |
| 第4条 | 日本と韓国との間の既存の条約は、本条約の条項に抵触しない限り有効とする。 |
| 第5条 | 日本政府は、大韓帝国の皇室の安寧と尊厳を維持することを保証する。 |
関連事項の比較
- **第一次日韓協約**(1904年): 財務・外交顧問の派遣を規定。実質的な内政干渉の開始。
- **乙巳保護条約**(1905年): 外交権の完全剥奪と統監府の設置。事実上の保護国化。
- **第三次日韓協約**(1907年): 内政権の掌握。法令の制定や官吏の任免に統監の承認を必要とした。
- **韓国併合条約**(1910年): 韓国の主権を完全に日本へ譲与し、朝鮮総督府を設置。
条約の有効性を巡る現代的課題
**乙巳保護条約**に関しては、歴史教育や外交問題において今なお議論が絶えない。特に、条約の締結に際して高宗皇帝の署名や国璽の押印が正式に行われていなかったという事実は、韓国側にとって「当初からの無効」を主張する強力な法的根拠となっている。一方で、当時の国際慣行における「代表者に対する強迫」と「国家に対する強迫」の区別や、事後的な追認の有無といった観点から、日本側は一貫して有効性を主張してきた。このように、100年以上前の出来事でありながら、**乙巳保護条約**は東アジアにおける国際関係や歴史和解を考える上で避けて通れない極めて重要なトピックであり続けている。この時期の日本の動向を理解するには、当時の第一次日韓協約からの連鎖的な主権侵害の過程を把握することが不可欠である。