中央条約機構|冷戦期の集団防衛枠組み

中央条約機構

中央条約機構は、1950年代の冷戦構造のもとで中東から南アジアにかけての安全保障枠組みを形成するために作られた多国間同盟である。前身は1955年のバグダッド条約であり、1959年に組織としての名称を中央条約機構(CENTO)へ整えた。ソ連の影響力拡大を抑止し、域内諸国の軍事協力と政治的連携を促す意図があったが、地域情勢と加盟国の内政変動に左右され、1979年に解体へ至った。

成立の背景

第二次世界大戦後、中東は資源と交通路の要衝として国際政治の焦点となった。同時に、英仏の影響力が相対的に弱まり、米ソ対立が前面化する。こうした環境で、西側はNATOを欧州の柱としつつ、周辺地域にも連携網を広げる発想を強めた。中央条約機構は、その延長線上で「欧州とアジアの間」をつなぐ帯状の安全保障構想の一角として位置づけられた。

バグダッド条約からCentoへ

1955年、イラクとトルコが条約を結び、続いて英国、イラン、パキスタンが加わって枠組みが拡大した。これがバグダッド条約である。ところが1958年のイラク革命でイラクが離脱し、拠点都市としてのバグダッドを失った。翌1959年、組織は再編され、名称を中央条約機構(CENTO)として活動を継続する。形式上は集団安全保障の枠組みであったが、加盟国の利害調整が難しく、運用は限定的になりやすかった。

加盟国と体制

中央条約機構の主要参加国は、トルコ、イラン、パキスタン、英国である。米国は条約の正式加盟国ではない時期が長い一方、軍事援助や協議への関与を通じて事実上の支援者として影響力を持った。組織運営は常設の協議機関を中心に行われ、軍事分野に限らず通信、輸送、経済協力などの実務的議題も扱われた。

  • トルコ:黒海と地中海を結ぶ地政学的位置から北方抑止の前線を担う

  • イラン:湾岸と内陸を結ぶ結節点として期待される

  • パキスタン:南アジアの安全保障上の要素として参加する

  • 英国:旧来の地域関与と同盟維持の観点から関与する

活動内容と実態

中央条約機構は共同防衛を掲げたものの、欧州のような統合司令部や大規模常備戦力を伴う制度には育ちにくかった。代わりに、情報共有、演習、軍事顧問団や装備供与、インフラ整備といった間接的支援が中心となる。加盟国間の相互運用性向上や通信網の整備は一定の成果を持ったが、地域紛争の連鎖と各国の優先順位の違いが、同盟としての一体性を弱めた。

地理的課題

対象地域は中東から南アジアに及び、国境線や民族・宗派の配置が複雑である。脅威認識が一様にならず、対外抑止よりも国内安定や近隣対立が政策の中心になりやすかった。このため、集団防衛条項の実効性は常に試される形となった。

対外関係の影響

同盟の運用は、米英の中東政策やソ連の外交姿勢の変化に影響を受けた。さらに、域内ではアラブ民族主義の高揚や政変が続き、同盟参加が国内政治の争点となる局面も生じた。こうした環境では、協議機関としての機能は維持できても、危機時の即応体制を整えることは容易ではなかった。

解体への道筋

1970年代後半、イラン国内の体制変動が決定的な転機となる。1979年のイラン革命によりイランが離脱し、同盟の中核が失われた。続いてパキスタンも脱退を表明し、組織として存続する条件が崩れる。こうして中央条約機構は1979年に解体された。冷戦期の同盟としては短命であったが、地域安全保障を外部同盟で設計しようとした試みの象徴として、後年の中東政策論や同盟研究で参照され続けている。