一国社会主義論|ソ連で構想された社会主義路線

一国社会主義論

一国社会主義論とは、世界革命が実現していない状況でも、単独の国家、とりわけソビエト連邦において社会主義の建設が可能であるとする理論である。これはマルクス以来の「資本主義は世界的な制度であり、その克服も国際的過程として進む」という見通しを修正し、まずソ連が自国の経済と社会を社会主義的に改造し、その成功を足場に世界革命を促進できると主張した点に特徴がある。この理論は、スターリンが指導権を確立していく過程で公式路線とされ、党内闘争や対外政策、さらには国内の急速な工業化・農業集団化の理論的根拠として機能した。

成立の歴史的背景

一国社会主義論が登場した背景には、ロシア革命後の国際情勢があった。1917年の革命後、ボリシェヴィキはヨーロッパ全体で革命が連鎖し、ドイツ革命などを通じて社会主義国家群が成立すると期待していた。しかし、ドイツやハンガリーの革命は敗北し、ソビエト国家は資本主義諸国に包囲された孤立状態に置かれた。さらに内戦と干渉戦争を経て国土は荒廃し、レーニン死後の権力闘争が激化するなかで、「世界革命の到来を待つのか、それとも一国での建設を優先するのか」という問題が鋭く問われたのである。

理論の基本的内容

一国社会主義論は、マルクス主義の枠内にとどまりつつも、従来の前提を大きく組み替える試みであった。古典的マルクス主義では、社会主義への移行は複数の先進資本主義国が同時的に革命を経験することを前提としていたのに対し、この理論は、後進国ロシアが単独で社会主義建設に取り組みうると主張したのである。

  • ソビエト国家は、農業国であっても計画経済と国有化を通じて社会主義的発展を実現しうる
  • 資本主義諸国に包囲されていても、軍事・経済的自立を強化すれば生き延びることができる
  • 一国での成功は、将来の世界革命に対する模範・支援基地となる

このように一国社会主義論は、孤立状況を逆手に取り、「まず自国での建設を優先せよ」という路線を理論化したものであった。

トロツキーとの対立

トロツキーは、「永続革命論」に立って、ロシア単独の社会主義建設には限界があり、西欧先進国の革命による支援なしには社会主義は完成しえないと批判した。彼にとって一国社会主義論は、国際主義を放棄した「国家的限定主義」と映ったのである。これに対してスターリンは、ソ連の客観条件を強調し、世界革命の遅れを前提に、現に存在するソ連国家を強化することこそ革命の利益に合致するとして反論した。この論争は、やがて党内権力闘争と結びつき、トロツキー派が「左翼反対派」として排除される理論的根拠ともなった。

レーニンの遺産と解釈

一国社会主義論を正当化するため、スターリン派はレーニンの死後、レーニンの発言や著作を再解釈し、「レーニンもまたソ連の自力建設を重視していた」と主張した。他方、反対派はレーニンが一貫して国際革命の必要性を説いていたと指摘し、この理論をレーニン主義からの逸脱とみなした。こうした「レーニン解釈」をめぐる争いは、歴史叙述をめぐる政治闘争でもあり、ソ連史研究においても重要な論点となっている。

ソ連の社会主義建設への影響

一国社会主義論は、1920年代後半以降の実際の政策選択に大きな影響を与えた。第1次5カ年計画に象徴される重工業優先の急速な工業化、農業の集団化、軍事力の強化などは、自国のみで資本主義国の包囲を突破するという発想に根拠を持っていた。これらの政策はソ連の社会主義建設を大きく進展させる一方で、農村の破壊や大規模な人権侵害も引き起こし、「社会主義建設」と抑圧的統治の結びつきをめぐる議論を生じさせた。

国際共産主義運動への波及

一国社会主義論は、コミンテルンを通じて各国共産党の路線にも影響を与えた。ソ連を「社会主義の祖国」とみなす立場から、各国の党はしばしば自国の条件よりもソ連の外交方針を優先し、その結果、民族運動や民主主義勢力との連携が制約される場合もあった。他方で、資本主義国におけるファシズム台頭に対抗するために、ソ連を中心とする反ファシズム統一戦線が模索され、ファシズムとの対抗軸の中でこの理論が正当化される側面も存在した。

評価と歴史的意義

歴史的にみれば、一国社会主義論は、孤立した革命国家が生き延びるための現実的対応として理解しうる一方で、国際主義的視野を狭め、国家の利害を優先する官僚的統治を正当化したと批判されてきた。今日の研究では、この理論をめぐる党内論争や政策の帰結を検証することを通じて、ソ連型社会主義の特質やその限界を明らかにする試みが続いている。スターリン体制の成立、ロシア革命のその後、さらには20世紀世界史全体を理解するうえで、一国社会主義論は欠かすことのできない重要な概念である。