ヴァンデーの反乱
ヴァンデーの反乱は、1793年からフランス西部のヴァンデー地方とその周辺で発生した大規模な内戦型の反革命運動である。農民や職人、地方貴族、聖職者らが結びつき、共和政を進めるパリの革命政府に対して王政とカトリック信仰の復活を掲げて武装蜂起した。この反乱は、フランス革命期の政治・社会対立が地方社会の宗教・身分秩序と鋭く衝突した事例として、後世まで強い関心を集めてきた。
ヴァンデー地方の特徴と背景
ヴァンデー地方は、大土地所有の貴族や教会の勢力が比較的強く残り、農民も保守的なカトリック信仰に深く結びついていた地域である。1789年以降の革命過程で、教会財産の没収や聖職者への宣誓義務付けなどが行われると、住民は伝統的な聖職者を守ろうとし、パリの新体制に不信感を募らせた。さらに、ルイ16世の処刑と王政廃止によって王と宗教が一体であった旧体制の象徴が否定されると、地域の保守的感情は反革命的な方向へと傾いた。
徴兵制と反乱勃発
決定的な契機となったのは、1793年の徴兵令であった。対外戦争が激化するなかで革命政府は30万人徴兵を命じたが、農民にとって家族労働力を奪うこの政策は大きな負担であった。各村で徴兵に対する暴動が起こり、それが次第に組織的武装蜂起へと発展したのである。反乱軍は伝統的なカトリック信仰と王家への忠誠を掲げ、「国王・教会・地方の自治」を守る運動として正当化した。
反乱軍の構成と指導者
反乱軍は「カトリック・王党軍」とも呼ばれ、農民を主体としつつ、地方貴族の指導層や非宣誓聖職者がこれを指導した。軍事経験の乏しい指導者も多かったが、地形に通じた住民の機動力を生かし、初期には共和国軍を各地で撃破した。彼らは王都パリを直接目指すというより、地域の町や要塞を制圧し、革命政府の統治を排除することを重視した点に特徴がある。
戦闘の展開と共和政の危機
1793年春から夏にかけて、反乱軍は西部一帯の都市を次々と制圧し、革命政府にとって深刻な脅威となった。同年9月のヴァルミーの戦い以後、対外戦争では一定の優位を得ていたものの、国内ではヴァンデーと他地域の反乱が重なり、第一共和政の存立そのものが揺らいだ。パリでは危機感が高まり、非常措置として非常委員会や革命裁判所が強化され、後の「恐怖政治」への道を開く一因となった。
ジャコバン派政府による弾圧
反乱に対して、パリの革命政府、特にジャコバン派主導の政権は容赦ない弾圧策を採った。ロベスピエールやダントンらの指導のもと、国民公会は大量の軍隊と治安部隊を派遣し、反乱軍のみならず支援が疑われる住民に対しても厳しい処罰を科した。1794年初頭にかけて行われた「地獄部隊」と呼ばれる討伐行動では、村落の焼き討ちや住民の大量処刑が行われ、ヴァンデーは壊滅的な被害を受けたと伝えられる。
反乱の終結とその後の動揺
主力部隊が撃破されると、ヴァンデーの反乱は次第に小規模なゲリラ戦へと変化した。テルミドールのクーデタでジャコバン派が失脚し、総裁政府期に入ると、政府は一定の恩赦や交渉による pacification(鎮静化)策を試みたが、王党派ゲリラは完全には沈静化せず、西部は長く不安定な状態にとどまった。19世紀に入っても、ヴァンデーはカトリックと王党主義の牙城としてフランス政治に独自の影響を与え続けた。
社会構造と宗教・政治対立
この反乱は、単なる「旧体制対新体制」の図式だけでは説明しきれない複雑な社会構造を反映している。地域の名望家である貴族や聖職者と、彼らに保護されてきた農民層との依存関係が強かったため、中央から押しつけられた革命改革は、農民にとって必ずしも「解放」ではなく共同体の破壊と映った。また、都市の急進的な革命派と地方の保守的住民との分断は、フランス革命全体を貫く対立構図でもあり、ヴァンデーはその最も激しい表れの一つであった。
歴史的評価と記憶
近代以降、ヴァンデーの反乱は政治的立場によって評価が大きく分かれてきた。共和主義的立場からは、外国勢力との戦争下で革命政府を背後から脅かした「反革命反乱」として批判され、一方で保守・カトリック的立場からは、信仰と共同体を守ろうとした「殉教的抵抗」として称揚されることも多い。さらに、近年の研究では、国家建設の過程で中央集権国家が地方社会をどのように統合しようとしたのか、またその過程でいかなる暴力が生み出されたのかを問う事例として位置づけられており、フランス革命期の内戦のなかでも重要な研究対象であり続けている。