ラーマ5世
ラーマ5世は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてシャム(現タイ)を統治したチャクリー朝第5代の国王である。父ラーマ4世の改革路線を引き継ぎつつ、中央集権化・法制度整備・奴隷制廃止などの近代化政策を推進し、同時期に東南アジアへ進出したイギリスやフランスとの外交を通じて自国の独立維持に成功したことで、タイ近代史における最重要の君主の一人と評価されている。
生涯と時代背景
ラーマ5世(チュラーロンコーン)は1853年、チャクリー朝ラーマ4世の子として生まれた。幼少期から宮廷内で仏教・タイ伝統文化に加え、西洋式の語学や科学教育を受けたことは、その後の改革路線の基盤となった。1868年に父王の死去により即位するが、即位当初は若年であったため、有力貴族による摂政体制のもとで政治が行われた。当時の東南アジアでは、イギリスがビルマやマラヤへ、フランスがベトナムやカンボジアへ勢力を拡大し、やがてフランス領インドシナ連邦が形成されつつあり、シャムは列強に挟まれた緊張した国際環境に置かれていた。
中央集権化と官僚制改革
ラーマ5世は親政を開始すると、まず地方統治と財政を王権のもとに再編する中央集権化を進めた。従来、地方は有力貴族や王族が半独立的に支配していたが、王直属の官僚を派遣して行政単位を再組織し、徴税権や裁判権を王権に集中させた。これにより、地域ごとのバラバラな慣習法や税制が統一され、近代国家としてのシャムの枠組みが整えられた。こうした官僚制改革は、西洋列強が支配した周辺地域、たとえばベトナムやカンボジアがフランス領インドシナ連邦として植民地化されていく動きに対抗しうる国家能力を高めることを意図したものでもあった。
奴隷制廃止と社会改革
ラーマ5世の治世を特徴づける重要な政策の一つが、奴隷制と隷属的労働制度の段階的廃止である。急激な解放は社会不安や経済混乱を招くと判断し、一定年齢に達した奴隷から順次解放する制度や、身代金の上限設定などを通じて、長期的な移行を図った。また、伝統的慣習に依拠していた裁判制度を改め、西洋法を参照した近代的な裁判所と法典の整備を進めた。これらの改革は、国内社会の近代化であると同時に、不平等条約の改正交渉において「文明国」であることを示す材料ともなり、後世の人びとはラーマ5世を、人身売買や封建的束縛から民衆を解放した国王として記憶している。
経済・インフラの近代化
- 鉄道建設や道路整備を推進し、首都バンコクと地方主要都市を結ぶことで、行政統合と国内市場の形成を進めた。
- 電信や郵便制度を導入し、官僚制の情報伝達能力を高めるとともに、対外外交の迅速化にもつなげた。
- 稲作中心の輸出経済を育成し、関税収入や輸出課税によって国家財政の基盤を強化した。こうした経済政策は、列強の直接支配を受けたベトナム保護国化やカンボジア保護国化下の地域とは異なる、自立的な近代化の道を模索する試みであった。
対外関係と列強との外交
外交面でラーマ5世は、イギリスとフランスの対立を巧みに利用しながら、自国の存立を守る「緩衝国家」戦略をとった。周辺では清朝とフランスの清仏戦争が起こり、トンキンでは黒旗軍がフランス軍と戦うなど、パワーバランスが激動していた。その結果結ばれた天津条約(1885)などを通じてフランスのインドシナ支配が強まると、シャムはメコン川流域のラオス左岸やカンボジア領の一部をフランスに割譲させられた。他方で、英領マラヤとの国境画定により、シャムの南部領有は一定程度承認されることとなる。このように領土の一部放棄を余儀なくされながらも、完全な植民地化を回避した点に、ラーマ5世外交の歴史的意義が見いだされる。
文化・教育政策と遺産
ラーマ5世は行政や軍事だけでなく、教育・文化の近代化にも力を注いだ。王立学校の設立や官僚養成のための近代学校制度の整備により、読み書きや西洋語学、法学・理科教育を受けた新しいエリート層が育成された。優秀な学生はヨーロッパや日本などへ留学させられ、帰国後には近代官僚や軍人として国家運営に参加した。また、西洋の政治思想や哲学も徐々に紹介され、のちにサルトルやニーチェに代表される近代思想が受容される素地が形づくられていく。1910年に崩御した後も、タイでは毎年10月23日が国民の祝日とされ、人々は「近代タイ国家の父」としてラーマ5世の功績を追想している。