モルダヴィア
モルダヴィアは、中世から近代にかけて東ヨーロッパに存在した公国であり、現在のルーマニア北東部とモルドバ共和国、ウクライナ西部の一部に相当する地域を指す歴史的名称である。モルダヴィア公国はカルパチア山脈と黒海の間に位置し、交易路の結節点として発展しつつ、周辺のハンガリー王国やポーランド王国、後にはオスマン帝国やロシア帝国といった大国の狭間で自立と自治を維持してきた。中世には東方正教会を基盤とする侯国として独自の文化を育み、近代にはルーマニア民族運動やバルカン諸国の国民国家形成と結びつく重要な地域となった。
地理と範囲
モルダヴィアの歴史的領域は、西をカルパチア山脈、東をドニエストル川、南をドナウ川と黒海沿岸に囲まれた一帯である。この地域は広義のバルカン半島と東ヨーロッパの境界に位置し、北方のポーランド・リトアニア連合、南方のオスマン帝国、東方の草原地帯とを結ぶ交易路が集中していた。そのため農業生産力に加えて塩や家畜、毛皮などの交易が盛んであり、戦略的価値の高い緩衝地帯としてしばしば国際政治の争奪対象となった。
成立と中世の発展
モルダヴィア公国の成立は、14世紀の中世ヨーロッパにおけるハンガリー王権の動揺と、カルパチア山麓の辺境領主の自立と結びついていると理解される。伝承ではボグダン1世がハンガリーから離反して公国を樹立したとされ、公国は山地と平原を結ぶ要衝を押さえつつ、スチャヴァやのちのヤシを中心に政治的権威を確立した。
建国と初期の支配者
建国期のモルダヴィアは、周辺のタタール勢力やハンガリー、ポーランドとの軍事的均衡を取りながら自立を模索した。君主は農村共同体に課税し、要塞都市を整備して外敵に備えるとともに、東方正教会を保護して修道院や聖堂を各地に建立した。こうした宗教保護政策は、のちにビザンツ文化の継承地としてモルダヴィアを特徴づける要素となった。
シュテファン大公の時代
15世紀後半に即位したシュテファン3世(シュテファン大公)の時代、モルダヴィアは最盛期を迎えたとされる。彼はポーランドやハンガリー、さらには台頭しつつあったオスマン帝国と戦いながら巧みな外交を展開し、公国の領土と自治を維持した。彼の治世に築かれた城砦や壁画で装飾された修道院群は、今日でも地域の歴史的遺産として知られている。
オスマン帝国支配と自治公国
16世紀以降、モルダヴィアは徐々にオスマン帝国の宗主権下に組み込まれた。公国は完全な領有ではなく、貢納と軍事協力を条件とする「属国」としての地位を与えられ、公国内の内政には一定の自治が残された。この体制の下で、君主(ヴォイヴォダやホスピタル)の地位はしばしばイスタンブルの宮廷政治と結びつき、政変も頻発した。
- モルダヴィア君主はスルタンから任命され、高額の貢納を課せられた。
- 貢納と引き換えに、公国内の宗教制度や土地所有制度は比較的維持された。
- 一部時期にはギリシア系貴族(ファナリオティ)が統治を担い、ギリシア文化の影響も強まった。
ロシア帝国とオーストリアの進出
18世紀以降、黒海北岸へ南下するロシア帝国と、ハプスブルク家のオーストリア帝国が台頭すると、モルダヴィアは両大国とオスマン帝国の角逐の舞台となった。ロシア・トルコ戦争やナポレオン戦争期の国際政治の中で、公国の一部であるベッサラビアやブコヴィナがロシアやオーストリアに割譲され、領域は次第に分割された。19世紀半ばのクリミア戦争においても、ドナウ下流域の支配権や黒海沿岸の軍事バランスをめぐってモルダヴィアは重要な前線地域となった。
ルーマニアとモルドバの形成
19世紀になると、モルダヴィアとワラキアの両公国では、民族意識の高揚と国民国家形成を目指す運動が進展した。1859年、両公国は同一の公(クザ)の選出によって実質的に統合され、のちのルーマニア王国へと発展していく。一方、ドニエストル川以東のベッサラビア地域はロシア支配を経て、20世紀にはソ連構成共和国を経たのち、独立国家モルドバ共和国として歩むことになった。このようにモルダヴィアの歴史的領域は、近代以降、複数の国家に分割されつつも、それぞれの国家形成に深く関わっている。
文化・宗教と歴史的遺産
モルダヴィアは、東方正教会信仰にもとづく宗教文化と、ラテン系言語を話す住民の伝統が重なり合う地域である。ビザンツ由来の聖像画や修道院建築は、のちのルーマニア文化の核となり、また黒海世界と中欧世界を結ぶ東ヨーロッパの交差点として多様な影響を受けてきた。現代の歴史学においても、モルダヴィアはバルカンと東欧の境界地域として、国民国家形成や帝国支配、宗教と民族の相互作用を考えるうえで重要な研究対象となっている。