[![ムスタファ・ケマル・アタチュルク(1881~1938 / トルコ共和国の初代大統領 オスマン帝国軍将軍 トルコ建国の父)の戦争の名言 \[今週の防災格言768\] | 防災意識を育てるWEB …](https://tse2.mm.bing.net/th/id/OIP.tYXd2_qJXBOEKo6l9Cpc4wHaJ_?cb=ucfimg2\&pid=Api\&ucfimg=1)](https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-929?utm_source=chatgpt.com)
ムスタファ=ケマル
ムスタファ=ケマルは、オスマン帝国崩壊の危機の中でトルコ民族運動を指導し、1923年にトルコ共和国を建国した政治家・軍人である。第一次世界大戦後、列強が敗戦国オスマン帝国を分割しようとする中でアンカラに新政府を樹立し、ギリシア軍や連合国軍に対する独立戦争を勝利へと導いた。その後、初代大統領として世俗主義・共和主義・民族主義を軸とする「ケマル主義」を掲げ、文字改革や法制度改革など急進的な近代化政策を推し進め、現代トルコ国家の基礎を築いた人物である。
生い立ちと青年期
ムスタファ=ケマルは1881年頃、マケドニア地方の港湾都市サロニカ(現在のギリシア・テッサロニキ)に生まれた。多民族・多宗教が混在するこの都市は、衰退期に入ったオスマン帝国の縮図であり、彼はそこで帝国の行財政の混乱や民族問題に直面した世代を代表していた。軍人を志したムスタファ=ケマルは陸軍学校・陸軍大学で教育を受け、数学の教師から「ケマル(完全)」の名を与えられたとされる。青年期には、専制的なスルタン体制を批判し立憲制や近代化を求める青年トルルコ系の思想に親近感を抱き、帝国改革を目指す官僚・軍人ネットワークの中で頭角を現した。
オスマン帝国の軍人としての経歴
ムスタファ=ケマルは、帝国末期の度重なる戦争に従軍しながら軍人としての評判を高めた。イタリアとの戦争やバルカン戦争では、後に帝国の解体へつながる領土喪失の現場を経験し、軍制改革や政治指導の欠如を痛感したとされる。1908年の青年トルコ革命により憲法が復活すると、軍はオスマン近代化の担い手として期待され、将校であったムスタファ=ケマルもまた、権力の中枢に接近しつつも、特定派閥への盲従を避ける独立した姿勢を保った。
第一次世界大戦とガリポリの戦い
1914年に始まった第一次世界大戦でオスマン帝国が同盟国側として参戦すると、ムスタファ=ケマルは各戦線で師団指揮官として活躍した。その中でも1915年のダーダネルス海峡防衛、いわゆるガリポリの戦いでの奮戦は有名であり、英仏連合軍の上陸作戦を撃退したことで、彼は帝国内外から「英雄」とみなされるようになった。この経験は、帝国崩壊後に民族的カリスマとして指導力を発揮する基盤となった。
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セーヴル条約とトルコ民族運動
第一次世界大戦の敗北後、列強はセーヴル条約によってオスマン帝国領を大幅に分割し、アナトリア各地の支配権をギリシアや列強勢力に割り当てようとした。これに対し、スルタン政府はイスタンブルで列強に従属的な姿勢を示したが、ムスタファ=ケマルら民族派はこれを「国家存亡の危機」とみなし、サムスンに上陸して地方の抵抗勢力を組織化し、アンカラに国民議会政府を樹立した。こうして、旧体制のスルタン政権に対抗するトルコ民族運動が形成され、帝国の改革から国家再建へと歴史の焦点が移っていった。
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ギリシア=トルコ戦争とローザンヌ条約
- 1919年以降、ギリシア軍は小アジア西岸へ上陸し、イズミル周辺を占領した。この侵攻は、ギリシアの膨張政策と連合国の対トルコ政策が結びついたものであり、アンカラ政府は民族防衛戦争として徹底抗戦を組織した。戦局が逆転すると、ムスタファ=ケマル率いる民族軍は決定的勝利を収め、ギリシア=トルコ戦争はトルコ側の優位で終結した。
- その結果、1923年に締結されたローザンヌ条約は、セーヴル条約を実質的に破棄し、アンカラ政府をトルコの正統政府として承認するとともに現代トルコの国境と主権を国際的に確定した。ムスタファ=ケマルは外交・軍事両面で国民国家の独立を回復した指導者として位置づけられ、「建国の父」としての地位を確立していった。
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共和国樹立とケマル主義
1922年にスルタン制が廃止され、翌1923年にトルコ共和国が宣言されると、ムスタファ=ケマルは初代大統領に就任した。彼が掲げたケマル主義は、共和主義・民族主義・人民主義・国家主義・世俗主義・革命主義などから成り立ち、伝統的なスルタン制とイスラーム法秩序を基礎から改編しようとする近代化イデオロギーであった。これらの理念は、19世紀以来のオスマン帝国の改革やパン=トルコ主義、さらには多民族帝国の解体経験を踏まえたものであり、近代的なトルコ民族国家の建設を目指していた。
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国内改革と世俗化政策
- カリフ制の廃止や宗教裁判所の解体を通じて国家と宗教の分離を進め、教育制度や民法典を西欧諸国を参照した世俗的な制度へと統一した。
- アラビア文字によるトルコ語表記を改め、ラテン文字にもとづく新アルファベットを導入することで識字率の向上と国民統合を図った。
- 衣服や姓名に関する法改正を通じて、伝統的な身分的称号や宗教的外見規範を弱め、近代的市民としてのトルコ人像を形成しようとした。
これらの改革は、アナトリアに居住するトルコ系民族を核とした国民国家を作り上げる試みであり、帝国的多様性を背景とする社会に深い変化と緊張をもたらした。
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思想的背景と歴史的評価
ムスタファ=ケマルの思想は、19世紀以来の立憲主義運動や青年トルコ革命、多民族帝国の危機に直面した青年トルコの経験を受け継ぎつつ、帝国の枠組みを超えて単一のトルコ民族国家を構想した点に特色がある。彼の主導した急進的な世俗化と中央集権化は、宗教勢力や地方社会との対立を生み、クルド問題など少数民族の統合をめぐって現在まで論争の的となっている一方、帝国の瓦解から短期間で近代国家を築き上げた指導力は、20世紀のリーダー像として国際的にも高く評価されている。
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