マルヌの戦い
マルヌの戦いは、1914年9月上旬にフランス北部のマルヌ河畔で行われた会戦であり、開戦直後の第一次世界大戦における最初の決定的転機とされる戦闘である。パリ目前まで進撃したドイツ帝国軍を、フランス軍とイギリス海外派遣軍が食い止め、ドイツの電撃的勝利の構想を挫折させた。この結果、西部戦線は塹壕戦の長期消耗戦へと移行し、「短期決戦の夢」が終わりを告げることになった。
背景―サライェヴォ事件とシュリーフェン計画
サライェヴォ事件を契機として欧州の同盟網が連鎖的に動員され、1914年夏に第一次世界大戦が勃発した。ドイツはフランスとの二正面戦争を回避するため、あらかじめ立案していたシュリーフェン計画にもとづき、西方でフランスを短期間に撃破することを目指した。この構想では、ベルギーとルクセンブルクを経由して北から大きく迂回し、パリの西方を回り込んでフランス軍主力を包囲殲滅することが想定されていた。
一方、フランス側は「第17計画」と呼ばれる攻勢案にもとづき、エルザス・ロートリンゲン奪回をめざして東部国境に攻勢を仕掛けたが、ドイツ軍の防御と反撃の前に大きな損害を被った。この間にもドイツ軍右翼はベルギーを突破し、リューヴェンやモンスを経て急速に南下し、パリに接近していった。
戦闘直前の情勢―パリへの接近と仏英軍の後退
1914年8月から9月初頭にかけて、ドイツ第1軍と第2軍は連戦連勝を重ね、フランス軍とイギリス海外派遣軍を押し下げながらパリ近郊に迫った。パリは総督ガリエニの指揮下に置かれ、市民の間には首都陥落への不安が高まったが、政府はボルドーへと移転し抵抗継続の意思を示した。ここでフランス総司令官ジョフルは、西部戦線全体の配置を再編し、パリ近郊のマルヌ河畔で反攻に転じる決断を下した。
ドイツ側では、右翼を担うクルーク将軍の第1軍が想定よりも内側、すなわちパリの東側を通過する進路をとったため、左側の第2軍との間に隙間が生じていた。この戦略的な間隙がのちの反攻の焦点となったとされる。
マルヌの戦いの経過
マルヌの戦いは、1914年9月5日から12日頃まで続いた。フランス軍はパリ防衛軍と第6軍をマルヌ川沿いに展開させる一方、英仏連合軍はドイツ第1軍と第2軍の間隙を突く形で攻撃に出た。パリではガリエニの命令により、首都のタクシーが動員され、予備兵力を前線へ緊急輸送するという象徴的な出来事も起こった。
- 9月5日:フランス第6軍がマルヌ河畔でドイツ第1軍の側面を攻撃
- 9月6~8日:英仏連合軍が全線で反攻を開始し、ドイツ軍右翼は圧迫される
- 9月9日:ドイツ軍は包囲を恐れ、アイヌ河線への撤退を決断
- 9月12日頃:両軍は新たな防御線を形成し、大規模な機動戦は終息
このようにしてドイツ軍の進撃は停止し、パリ陥落の危機は回避された。ドイツ側は作戦上の敗北を認めざるをえなくなり、短期決戦構想は事実上破綻したとされる。
参戦国と指揮官
マルヌの戦いには、主としてフランス軍とイギリス軍からなる協商国側と、ドイツ帝国軍が参加した。協商側の総司令官はフランス軍のジョフルであり、パリ防衛を担当したガリエニ、イギリス海外派遣軍のフレンチ将軍などが重要な役割を果たした。ドイツ側ではモルトケ参謀総長の下でクルーク将軍(第1軍)やビューロウ将軍(第2軍)が主力部隊を率いた。
兵力は双方あわせて数百万にのぼり、20世紀初頭の総力戦体制の下で、鉄道輸送や動員計画が大規模に活用された点でも近代戦の典型例とされる。また、東部戦線ではロシア帝国軍がドイツ・オーストリア境界に進攻しており、西部戦線での迅速な決着はドイツにとって死活的な意味を持っていた。
結果と軍事的意義
マルヌの戦いの結果、ドイツ軍はパリ占領の機会を失い、西部戦線の主導権を完全には握れなかった。ドイツ軍の後退後、両軍はより安定した防御線を求めて北方へ延伸し「海への競争」と呼ばれる陣取り合戦が展開され、その過程で連続した塹壕線が北海まで伸びることになる。こうして西部戦線は長期の塹壕戦と消耗戦の舞台となった。
戦略的には、ドイツの短期決戦の構想が破綻し、戦争が長期化・総力戦化する契機になった点が重要である。ドイツはフランスを早期に屈服させることに失敗し、以後は西部と東部の二正面で膠着を強いられた。これは同盟体制の均衡を変化させ、後には多くの国を巻き込む世界規模の戦争へと発展していく。
歴史上の評価
マルヌの戦いは、20世紀の軍事史において「奇跡のマルヌ」とも呼ばれ、協商側の迅速な再編と抵抗意志がドイツの計画を挫折させた象徴とみなされてきた。作戦上の判断ミスや通信の混乱、右翼軍の進路変更など、ドイツ側指導部の問題点も多く指摘されている。他方で、鉄道輸送や自動車の動員、首都民間資源の活用など、近代的な戦争動員の在り方を示した戦いでもあった。
この会戦によって、ヨーロッパの戦争は短期間で終結するという楽観的期待は打ち砕かれ、長期にわたる国家総力戦の時代が本格的に始まったとされる。第一次世界大戦全体の流れの中でも、シュリーフェン計画の挫折を決定づけた転換点として位置づけられている。
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