マッツィーニ
マッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1805-1872)は、19世紀のイタリア国家統一運動であるリソルジメントのなかで、最も重要な思想的指導者の一人である。熱烈な共和主義者であり、民族自決と人民主権を掲げた彼の思想は、イタリアのみならずヨーロッパ各地の民主主義運動に大きな影響を与えた。秘密結社運動から出発し、亡命先で政治結社青年イタリアを結成して革命運動を指導し、1848年の革命期にはローマ共和国樹立にも中心人物として関わった。彼は現実政治の妥協に背を向け、道徳と信仰に支えられた「人民の使命」を説いた人物として記憶されている。
生涯と時代背景
マッツィーニは1805年、ジェノヴァの愛国的な中流家庭に生まれた。当時のイタリアは、ウィーン体制のもとで複数の小国家に分裂し、北部はオーストリアの強い影響下にあった。こうした政治的分裂と外国支配への反発が、後のイタリア統一運動の土壌となったのである。彼は法学を学び、若くして弁護士となるが、その関心は次第に政治と民族運動へと向かっていった。学生時代から文学と歴史に親しみ、ナショナリズムや自由主義の思想を吸収しながら、自国の現状を批判的に捉えるようになったのである。
秘密結社運動と亡命
マッツィーニは青年期に、反オーストリア的な秘密結社カルボナリ(炭焼き党)に参加し、陰謀的な蜂起を通じて体制打倒を図った。しかし運動は弾圧され、彼自身も逮捕・投獄を経験する。釈放後まもなく国外追放となり、フランスのマルセイユなどへ亡命した。亡命生活は苦しく、生活基盤も不安定であったが、彼はこの経験を通じて陰謀中心の秘密結社ではなく、公開された政治運動と思想啓蒙によって国民全体を動員すべきであると考えるようになった。ここから後の組織づくりと宣伝活動が生まれるのである。
青年イタリアの結成と活動
1831年、マルセイユでマッツィーニは政治結社青年イタリアを結成した。この組織は、秘密結社的な要素を持ちながらも、出版物・宣言・宣伝ビラを通じて広く青年層に訴えかけることを特徴とした。目標は、王制ではなく共和政のもとでのイタリア統一であり、国民蜂起によって諸王侯や外国支配を打倒することであった。彼らは各地で蜂起を試みたが、多くは失敗し、参加者は投獄や処刑に追い込まれた。しかし、こうした試みはイタリア社会に民族意識と政治参加の重要性を浸透させ、後のイタリア王国成立に向けた心理的基盤を整える役割を果たした。
思想と理念 ― 「神と人民」
マッツィーニは、自らの思想を「神と人民」(Dio e Popolo)という標語に集約した。彼にとって「国民」とは単なる血縁や言語共同体ではなく、神から歴史的使命を託された道徳的共同体であった。各民族はそれぞれ固有の使命を持ち、その使命を自覚して自由と統一を実現するとき、真の国際的調和が訪れると考えたのである。この意味で彼のナショナリズムは排外主義というより、道徳的・宗教的色彩の濃い普遍主義的ナショナリズムであった。また、彼は貴族や王侯ではなく人民を主体とする共和政を重視し、教育・出版・結社を通じて市民の政治的成熟を促そうとした。
ローマ共和国と革命期の活動
1848年の「諸国民の春」と呼ばれる革命の波が各地を揺るがすと、マッツィーニはイタリアへ戻り、1849年に樹立されたローマ共和国の指導部に加わった。この共和政は、教皇領の世俗支配を廃し、自由主義的改革を進めようとしたが、教皇を支援するナポレオン3世率いるフランス軍の介入によって短期間で崩壊した。共和国防衛には、軍事的指導者ガリバルディも活躍し、のちの統一運動を象徴するエピソードとなったが、敗北後マッツィーニは再びロンドンなどへの亡命を余儀なくされる。それでも彼は筆と結社活動を通じて、イタリアとヨーロッパの民主主義運動を励まし続けた。
カヴールとの対立と路線の相違
やがてイタリアの国家統一は、サルデーニャ王国首相カヴールの外交と現実政治によって主導されるようになる。カヴールは立憲君主制のもとでの漸進的統一を目指し、クリミア戦争やフランスとの同盟を通じて領土拡張を図ったのに対し、マッツィーニは一貫して共和政と人民蜂起による統一を唱えた。この路線の違いから、両者の関係は対立的であり、彼は新たに成立した立憲王政のイタリア国家に対しても批判的であった。とはいえ、道徳的・精神的側面から国民統合を促した彼の思想が、現実政治を担った王政路線と相補的に作用したと評価する見方もある。
ローマ問題と晩年の評価
統一後も、ローマを首都とするかどうかをめぐるローマ問題は長く残された。1870年の普仏戦争によってフランスが撤兵するとイタリア軍がローマを占領し、ようやく統一国家は象徴的な首都を手に入れた。これはマッツィーニが若い頃から夢見ていた「ローマを首都とする統一イタリア」の実現であったが、その時まで彼は政治犯として逮捕されるなど、依然として体制にとって危険な人物であり続けた。彼の生涯は、妥協よりも信念と理想を優先したために成功と挫折が交錯するものであったが、のちの世代は彼を「イタリア共和国の精神的な父」と呼び、民主主義とナショナリズムを結びつけた思想家として評価している。