ポーランドの反乱
19世紀前半のポーランドの反乱は、分割支配を受けたポーランド人が民族独立と自由主義を求めてロシア帝国に対して起こした武装蜂起である。とくに1830~31年の「11月蜂起」は、ウィーン体制に揺さぶりをかけた事件として、七月革命やベルギーの独立と並んで語られる。
ウィーン会議後のポーランド
ナポレオン戦争後、ウィーン会議はポーランド全土の回復を認めず、その大部分をロシア皇帝を国王とする「ポーランド立憲王国」とした。形式上は憲法と議会をもつ立憲君主国であったが、実際にはツァーリと総督が強い権限を握り、検閲や秘密警察が反対派を監視した。この体制への不満は、士官学校の青年将校や知識人、都市の中産市民のあいだで高まっていった。
反乱の背景
ロシア帝国の専制支配に加え、ナショナリズムと自由主義の高まりが蜂起の背景にあった。ポーランド分割以来、貴族だけでなく農民や市民層にも「民族共同体」の意識が浸透し、文学や音楽などロマン主義文化がこれを後押しした。また、フランスの七月王政の成立や各地の憲法運動は、政治的変革は可能であるとの期待を強めた。
1830年11月蜂起の展開
1830年11月、ワルシャワの士官学校生が蜂起し、総督府を襲撃したことをきっかけに都市住民が合流し、臨時政府が樹立された。議会はロシア皇帝ニコライ1世の王位廃位を決議し、独立戦争の様相を帯びる。ポーランド軍は当初いくつかの戦闘で善戦したが、兵力と物資で勝るロシア軍に押され、1831年にはワルシャワが陥落して蜂起は鎮圧された。
鎮圧後の報復と亡命
蜂起後、ロシア政府はポーランド憲法と議会を廃止し、立憲王国の地位を奪ってロシア帝国への編入を進めた。多くの指導者や参加者が処刑・投獄され、一部はシベリア流刑となり、数万人規模の知識人や軍人がフランスなど西ヨーロッパへ亡命した。亡命者は「ポーランド問題」を国際世論に訴え、のちのヨーロッパ各地の民族運動や1848年革命に影響を与えた。
ヨーロッパ国際政治への影響
ポーランドの反乱は軍事的には敗北に終わったが、ロシアの抑圧的支配とウィーン体制の硬直ぶりを西ヨーロッパに印象づけた。フランスやイギリスの自由主義者はポーランド支援の世論を高め、保守的なロシア帝国やオーストリアへの警戒感を強めた。この事件は、秩序維持を掲げたウィーン体制が、各地の民族自決要求と自由主義運動を抑えきれなくなりつつあることを示す象徴的な出来事であった。