ボスニアヘルツェゴヴィナ|多民族が交差するバルカンの要衝

ボスニアヘルツェゴヴィナ

ボスニアヘルツェゴヴィナは、ヨーロッパ南東部のバルカン半島中央部に位置する内陸国である。面積は日本の四国と九州を合わせた程度で、首都はサラエボである。山地と丘陵が大部分を占め、わずかにアドリア海沿岸への出口を持つ。住民はボシュニャク人、セルビア人、クロアチア人の三民族が中心で、イスラーム、セルビア正教、カトリックという宗教的多元性を特徴とする多民族国家である。

地理と社会構成

ボスニアヘルツェゴヴィナは、内陸性気候と地中海性気候の影響を受ける地域が混在し、冬は寒冷で夏は比較的暑い。山岳地帯は交通の障害となる一方で、歴史的には外部勢力の侵入を防ぐ要因ともなった。住民構成は、イスラームを信仰するボシュニャク人、セルビア正教のセルビア人、カトリックのクロアチア人がほぼ拮抗しており、この複雑な民族・宗教構造が政治や紛争の背景に存在してきた。

中世ボスニア国家とオスマン帝国支配

ボスニアヘルツェゴヴィナ一帯には、中世にボスニア公国やボスニア王国が成立し、周辺のハンガリー王国やセルビア諸国家と勢力を争った。15世紀後半になると、拡大するオスマン帝国がこの地域を征服し、以後およそ4世紀にわたり支配した。オスマン支配下ではイスラームへの改宗が進み、今日のボシュニャク人の起源が形成される一方、諸宗教共同体に一定の自治を認めるミッレト制が採用され、多様な信仰が共存する社会が維持された。

オーストリア=ハンガリー帝国と第一次世界大戦

19世紀になると、オスマン帝国の衰退に伴い、ロシアやオーストリア=ハンガリー帝国など列強がバルカン問題に介入した。1878年のベルリン条約によって、ボスニアヘルツェゴヴィナの統治権は形式上オスマン帝国に残されたものの、実際の統治はオーストリア=ハンガリーに委ねられた。1908年に同帝国はこの地域を正式に併合し、民族運動の緊張が高まる。その頂点として1914年、サラエボでオーストリア皇位継承者が暗殺される事件が起こり、これが第一次世界大戦勃発の直接的な引き金となった。

ユーゴスラビア時代

第一次世界大戦後、ボスニアヘルツェゴヴィナはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(のちのユーゴスラビア王国)に編入された。第二次世界大戦後は社会主義連邦国家ユーゴスラビアの構成共和国の一つとなり、自主管理社会主義のもとで工業化と都市化が進んだ。冷戦期には冷戦下で東西いずれの陣営にも属さない非同盟政策がとられ、多民族共存の模範的国家として語られることもあった。

独立とボスニア紛争

1990年代初頭、ユーゴスラビア連邦の崩壊に伴い、ボスニアヘルツェゴヴィナでも独立をめぐる対立が激化した。1992年の独立宣言後、ボシュニャク人とクロアチア人を中心とする勢力と、セルビア系勢力とのあいだで大規模な内戦が勃発し、住民追放や虐殺など「民族浄化」と呼ばれる凄惨な暴力が展開された。同じモンテネグロやセルビアを中心とする周辺国の関与も加わり、紛争は国際問題化していった。

デイトン合意と現在の政治体制

1995年、アメリカ・オハイオ州デイトンで和平交渉が行われ、いわゆるデイトン合意により紛争は終結へと向かった。この合意に基づき、ボスニアヘルツェゴヴィナは「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」と「スルプスカ共和国」という2つの構成体からなる国家として再編され、三民族の権力分有を前提とする複雑な政治制度が設計された。国家元首は三民族代表による輪番制であり、国際社会から派遣される上級代表が政治過程を監督するなど、主権と国際関与が入り交じった体制が続いている。

経済・社会と欧州統合

紛争後のボスニアヘルツェゴヴィナは、インフラ破壊と人口流出からの復興に取り組みながら、市場経済への移行と民営化を進めてきた。しかし失業率の高さや汚職、多民族間の不信など構造的な課題はなお大きい。一方で、欧州連合への加盟候補国として制度改革を求められており、近隣のセルビアルーマニアなどとともに、地域全体の安定と統合に向けた歩みが続いている。