ベルギーの独立
ベルギーの独立は、ウィーン体制下で成立したネーデルラント連合王国の南部州が、1830年に北部から分離してベルギー王国として独立した出来事である。宗教・言語・経済構造の相違に加え、国王ウィレム1世の専制的統治への不満が蓄積し、フランスの七月革命を契機としてブリュッセルで蜂起が発生した。この独立は、19世紀前半ヨーロッパにおける自由主義とナショナリズムの高まりを象徴する事件として位置づけられる。
ネーデルラント連合王国の成立と南北の相違
1815年のウィーン会議の結果、旧オランダと現在のベルギー・ルクセンブルク地域はネーデルラント連合王国として統合された。この統合は、フランスを北方から牽制するための緩衝国家を作るという列強の思惑によるものであり、南北の歴史的・文化的相違は十分に考慮されなかった。北部はプロテスタントが多数派で商業と海運に強く、南部はカトリックが優勢で、工業化の進んだ毛織物や製鉄を中心とした地域であった。
宗教・言語・政治的不満
- 南部カトリック住民は、プロテスタントである国王の宗教政策や教育支配に反発した。
- 行政と司法でオランダ語が優先されたことは、フランス語を用いる南部エリートの不満を高めた。
- 議会では北部が優位に代表を確保し、財政・関税政策も北部有利と受け止められた。
これらの要因が重なり、南部住民は次第に、自らの利益と文化を守るためには政治的自立が必要であると感じるようになった。こうした不満は、フランス革命とナポレオン支配の経験を経て形成された自由主義的な世論とも結びついた。
1830年ブリュッセル蜂起と革命の拡大
1830年7月のフランス七月革命は、南部の急進派や自由主義者に大きな刺激を与えた。同年8月、ブリュッセルの劇場で愛国的内容のオペラ上演をきっかけに暴動が発生し、都市内の官庁や象徴的施設が襲撃された。王政府軍はこれを十分に鎮圧できず、蜂起はリエージュやヘントなど南部諸都市に波及した。やがて反乱勢力は暫定政府を樹立し、1830年10月、ネーデルラントからの分離と新国家樹立を宣言した。
ロンドン会議と列強の調停
ベルギーの独立がヨーロッパの安定を脅かすことを懸念した列強は、ロンドンで会議を開き、問題の外交的解決を図った。イギリスは北海沿岸に友好的な中立国家が成立することを望み、フランスは南部を併合するよりも、独立した緩衝国家の誕生を受け入れた。オーストリアやプロイセン、ロシアも大規模な戦争拡大は望まず、最終的にベルギーを独立・中立の王国として承認する方向で一致した。この過程で、ルクセンブルクやリンブルフの領域調整も議論され、複雑な国境線が形成された。
ベルギー王国の成立と中立化
1831年、ロンドン会議の勧告に従い、ドイツ諸邦出身のザクセン=コーブルク家のレオポルドがベルギー国王に選出され、立憲君主制に基づく立憲君主制国家が発足した。国内では、比較的急進的な憲法により信教・出版・結社の自由が保障され、議会制度が整備された。また、1839年のロンドン条約によりベルギーの永世中立が国際的に確認され、ベルギーは列強間の均衡を支える緩衝国家として位置づけられた。
ベルギー独立の意義
ベルギーの独立は、ウィーン体制が設定した人為的な国境線が、宗教・言語・経済構造の差異を無視していたことを露呈させた出来事である。同時に、この独立は、武力蜂起と外交交渉が結びつき、比較的短期間で新国家を成立させた事例としても注目される。その後の1848年革命や各地の民族運動にとって、ベルギーの事例は、自由主義的制度と国民国家建設が両立しうる先行例として大きな意味を持った。