ヘンリ3世|マグナ再確認と議会政治の萌芽

ヘンリ3世

ヘンリ3世(在位1216-1272)は、プランタジネット系イングランド王であり、幼少での即位、長期政権、そして男爵層との深刻な対立で知られる。父王ジョンの失政後、摂政のもとで統治を再建し、マグナ=カルタの再確認によって王権と身分社会の均衡を図った。宮廷の外来勢力への依存と過剰な財政負担は反発を招き、1258年のオックスフォード条項から第二次男爵戦争へと進む。最終的に王権は回復するが、議会政治の萌芽は定着し、後のエドワード1世の施策へと継承される。

即位と幼少期の統治

ヘンリ3世は1216年、九歳で即位した。摂政ウィリアム・マーシャルは内乱収拾と対仏講和を優先し、1216・1217年に大憲章を修正・再発布して諸侯の支持を回復した。これは父ジョン期の混乱を鎮める実務的妥協であり、王権の正統性を再構築する基盤となった。

王権運営と宮廷政治

ヘンリ3世は成長後、宮廷にプロヴァンスやポワトゥー出身の親族・側近を迎え入れた。王妃プロヴァンスのエリナーの外戚や母后系のルジニャン家系などが恩寵を受け、伯爵位・官職・年金の付与が相次いだ。これらは王権の人事裁量である一方、土着貴族の不満を高め、宮廷派と反宮廷派の対立を先鋭化させた。

宗教政策と建築後援

ヘンリ3世は敬虔で、ウェストミンスター寺院の大規模な再建に取り組み、王権の象徴空間をゴシック様式で刷新した。こうした信心と荘厳は神授王権の演出に資したが、長期にわたる工事費は王室財政の恒常的圧迫を招いた。

対外政策と領土問題

フランスにおける旧アンジュー帝国領回復は難航した。1242年の遠征は失敗し、ポワトゥーの回復は叶わず、英仏の力関係は固定化した。1259年のパリ条約で、イングランド王は大陸諸領の大半に対する請求を放棄する代わりに、ガスコーニュなどの所領についてフランス王への封臣関係を確認し、形式上の安定を得た。

シチリア政策と財政危機

ヘンリ3世は教皇の提案に応じ、王子エドマンドにシチリア王冠を与える計画を進めた。だが対外干渉の費用と教皇への支払いは重税を必要とし、国内合意のない歳入拡大は反発を招いた。王の信仰心とローマ政策は、現実の財政基盤と乖離し、政治的危機の火種となった。

オックスフォード条項と第二次男爵戦争

1258年、貴族たちはオックスフォード条項を掲げ、評議会統治・官職任免の監督・歳入管理の改革を迫った。国王は譲歩と巻き返しを繰り返し、1264年のミーズ・オブ・アミアンで教皇・フランス王仲裁により条項は無効とされる。これに反発した反王党は武力に訴え、内戦が本格化した。

モンフォール派の議会

1264年、シモン=ド=モンフォールはルイスの戦いで国王側を破り、国王父子を拘束した。1265年に召集された議会は、伯爵・司教に加え、州の騎士や都市代表を含める先駆的構成を示した。最終的にエヴシャムの戦いで王太子が勝利し秩序は回復するが、この経験は議会制度発展の記憶として残った。

ウェールズ・スコットランドとの関係

ヘンリ3世はウェールズ諸侯との均衡に苦慮し、1267年のモンゴメリー条約でリューウェリンの地位を承認した。北方ではスコットランド王家との縁組で安定を図る一方、境域の調整は繰り返された。これら周縁統治の課題は、後継者エドワード1世の軍事・行政改革の布石となる。

行政・法制の展開

条項政治と内戦の往復は、王室財政・保護権・保身のための特別課税などの制度的限界を露呈した。諸県の保安官人事や王室裁判の運用をめぐる監督要求は強まり、封建的合意と文書化の伝統は、後期プランタジネット朝の「法の支配」の理念へと接続していく。

人物像と史的評価

ヘンリ3世は敬虔で芸術・建築の庇護に熱心であったが、恩寵人事と財政運営には甘さがあった。だが彼の長期政権は、マグナ=カルタの原理を繰り返し確認し、身分代表の政治参加を制度化する過程を促した。父ヘンリ2世の司法改革の遺産と、対立から生まれた議会的統治の萌芽は、プランタジネット朝国家の長期的成熟に決定的であった。

関連項目