エドワード1世|ウェールズ征服と模範議会創設

エドワード1世

エドワード1世(在位1272〜1307)は、プランタジネット朝の国王であり、法制改革と領土拡張を通じて中世イングランド国家の枠組みを整備した統治者である。背が高く精力的な性格から「Longshanks」と呼ばれ、さらに対スコットランド政策の強硬さから「Hammer of the Scots」と渾名された。父はヘンリ3世、母はプロヴァンス伯女エリナーで、若き日にはシモン=ド=モンフォールの反乱を鎮圧し、第九回十字軍にも参加した。即位後のエドワード1世は王権の再建、ウェールズ征服、対スコットランド戦争、議会制度の整序、財政基盤の刷新など多方面に実績を残し、後世の「法の支配」や議会主権の発展に制度的基盤を与えた点で特筆される。

出自と即位

エドワード1世は1250年代にバロン戦争の渦中で軍事的指導力を示し、1265年のイーヴシャムでモンフォール派を破った。第九回十字軍からの帰途に父が死去し、1272年に実質的に即位、1274年に戴冠した。王妃エリナー・オブ・カスティルとの結婚は大陸的ネットワークをもたらし、巡回王権を活用した直接統治の推進に寄与した。治世初期のエドワード1世は乱れた王政を立て直し、法律・行政・財政の三領域で一貫した再編成を進めた。

国内統治と法制改革

エドワード1世の内政の核はコモン・ローの整序である。Statute of Westminster I(1275)は治安と訴訟手続を広く改め、Statute of Mortmain(1279)は教会による土地の死手保有を抑制した。さらに「Quo Warranto」調査(1278〜1290)で領主の権利根拠を精査し、Quia Emptores(1290)で保有地の売買転用時に中間保有関係の増殖を禁止して封建義務の流失を防いだ。これら一連の立法により、王権裁判の浸透と土地秩序の透明化が進み、統治の法的基盤が強化されたのである。

主要法令群

  • Statute of Westminster I(1275):治安維持・民事手続の整備
  • Statute of Mortmain(1279):教会による恒久保有の規制
  • Quo Warranto(1278–1290):領主権限の証拠提出要求
  • Quia Emptores(1290):土地譲渡時の中間封建関係の抑止

ウェールズ征服

1277年、続いて1282〜1283年の戦役でエドワード1世はウェールズ公リュウェリン体制を打倒した。1284年のStatute of Rhuddlanにより北ウェールズを王領として編入し、シャー制度と英王権司法を導入した。コンウィ、カーナヴォン、ハーレック、後にボーモリスなどの「エドワード朝城郭」は軍事・行政・象徴の拠点として機能し、征服地支配の持続性を保証した。1301年には王子エドワード(後のエドワード2世)をPrince of Walesに任じ、編入統治を制度化した。

城郭建設と統治の要点

  • 北ウェールズ沿岸に連接する要塞網で機動・補給を確保
  • 王領直轄の行政区画化により反乱抑止と徴税を効率化
  • 都市計画と市場整備で在地経済を王権秩序に組み込む

スコットランド戦争

アレグザンダー3世(1286)と相続人マーガレット(1290)の死で王位継承問題が生じ、仲裁の結果1292年にジョン・ベイリャルが即位したが、対仏政策を巡り1295年にAuld Allianceが成立すると、エドワード1世は1296年に侵攻してスコットランドを制圧、Stone of Sconeを移送した。だがウィリアム・ウォレスの蜂起で戦局は反転し、1298年ファルカークで勝利するも抵抗は収まらず、1306年にロバート・ザ・ブルースが挙兵した。エドワード1世は再遠征中の1307年に没し、統一は後継に委ねられた。

議会の発展

財政需要と統治の正統化を背景に、エドワード1世は代表の原理を制度化した。1295年のいわゆる「模範議会」は聖職者・貴族に加え、郡のknights of the shireと都市のburgessesを召集し、課税承認と王国合議の先例を確立した。1297年のConfirmatio Cartarumは「Magna Carta」等の再確認であり、課税は「共同体の同意」に基づくという理念を強化した。これらは後世の二院制の萌芽と、法に基づく統治の規範化へとつながった。

財政と経済政策

羊毛を中核とする対外交易を背景に、1275年に関税制を整え、1290年代にはwool関税や臨時課税(いわゆるmaltolt)を動員した。王室金融ではイタリア商人リカルディ家が一時期重要な役割を担い、1279年の貨幣改鋳で流通の健全化を図った。都市と商人に対する規制・保護の両面政策により、歳入の安定と市場秩序の維持を企図した点にエドワード1世の実務家としての側面が見える。

ユダヤ人追放(1290)

王権直轄の課税対象であったユダヤ人は、社会的緊張と高利批判の中で1290年に国外追放となった。これはキリスト教徒金融への転換と王室財政の構造変化をもたらし、同時に宗教的・社会的排除を制度的に固定化する結果ともなった。エドワード1世の統治は法と秩序の名の下に包摂と排除を併存させた点で複雑な評価を免れない。

対教会関係と外交

ボニファティウス8世の書簡「Clericis laicos」(1296)が聖職者課税を巡って緊張を高めると、エドワード1世は課税同意と権利確認の取引で収束を図った。対仏関係ではガスコーニュを巡る衝突が続き、1299年のモントルイユ合意で一時停戦し、王家間の婚姻による関係再調整を試みた。こうした外交・教会政策は、国内統治資源の確保と国際秩序の中での王権位置づけを両立させる現実主義的手法であった。

人物像と歴史的評価

エドワード1世は厳格な法意識と軍事的決断力を併せ持つ「行政する王」であった。ウェールズ征服とスコットランド戦争は強権的側面を示すが、包括的立法と議会招集の制度化は、イングランドにおける司法的統治と代表制の成熟を準備した。城郭網・道路・市場の整備は地理的統合を促し、王権の可視性を高めた。苛烈さと制度構築の両面を備えた治世は、中世国家形成の転換点として位置づけられ、後続の王権・議会関係の展開に決定的影響を与えたのである。