パールスィー|インドに伝わるイラン系少数派の多彩な文化

パールスィー

パールスィーは、古代イランのゾロアスター教徒が7世紀以降にインド西部へ移住し、そこで定着した人々を指す呼称である。彼らはペルシア語で「パールス(パールサ)」と呼ばれるイラン南部地域を出身とし、イスラーム勢力の拡大に伴う宗教的・社会的変化を避けるため海路でグジャラート地方へ渡ったとされる。インド社会の中で少数派としてありながらも、火の神殿を守り、古代の聖典アヴェスターを伝えるなど、独自の信仰を維持してきた。イギリスの植民地時代には商業や金融で頭角を現す者も多く、近代インドの経済発展に大きく寄与したと言われる。現在でもインドの大都市を中心にコミュニティを築き、伝統と現代生活を両立させながらその文化を次世代へと伝えている。

呼称と歴史的背景

パールスィーの名称は、イラン南部のファールス地方に由来し、イラン高原を指す古名「パールサ」と深く関係する。彼らがインドへ移住した明確な時期やルートは諸説あるが、一般的にはアラブのイスラーム勢力がササン朝を滅ぼした7世紀前後が転機とされる。海や陸を経てグジャラートやマハーラーシュトラなどに流入し、地元の領主との協定を結ぶことで滞在許可を得た。宗教的差別を避けるために、周囲に溶け込みつつも信仰の根幹は頑なに守り抜いた点が特徴的である。

宗教的特色

ゾロアスター教を受け継ぐパールスィーは、善なるアフラ・マズダへの崇敬と火を神聖視する拝火の儀礼を中心に据えている。火の神殿アータシュ・バーレムでは、不浄なものと接触を避ける独特の管理が行われ、聖火が途絶えないように見守り続けられている。葬儀に関しては「沈黙の塔」と呼ばれる施設が知られており、土葬や火葬を否定して鳥葬を行う伝統がインドに持ち込まれたが、近年では衛生・環境の観点から様々な議論が進んでいる。

社会への適応

インド移住後、パールスィーは初期こそ少数者として苦労を強いられたが、やがて交易や工業などの経済活動で大きな成功を収めるようになった。特に19世紀にイギリスがインドを植民地化すると、英語教育と海外とのビジネスをいち早く取り入れ、大商人・銀行家として名を馳せた。タタ(Tata)財閥やゴドレージ(Godrej)などの企業グループはパールスィーに起源をもち、現在でもインド経済を支える重要企業として認知されている。

言語と文化

彼らは現地のグジャラーティー語などを日常言語としつつも、宗教儀礼やコミュニティ内の行事ではパフラヴィー語やアヴェスター語の一部を継承している。食文化ではイランとインドの調理法が融合し、スパイスを多用する一方で伝統的なハーブや米料理が受け継がれてきた。また、婚礼や祭典などではゾロアスター教の象徴的な儀礼が行われ、それらが周囲の多宗教社会の中でも独特な存在感を示している。

火の神殿とコミュニティ

  • インド各都市に火の神殿が点在
  • 共同体による資金援助で施設を維持
  • 僧侶(ダストゥール)による儀式を厳格に執行

近代化とアイデンティティ

強い結束力をもつ一方、近代化の進展はパールスィーに新たな課題を投げかけた。世俗教育の普及や海外留学の増加に伴い、若い世代はコミュニティの伝統を重視しつつも、グローバル社会でのキャリアを選ぶケースが増えている。また、ゾロアスター教においては外部との婚姻や改宗を認めるか否かといった問題が議論されており、アイデンティティを守りつつ柔軟な対応を求める声も強まっている。

現状と課題

インドの人口全体から見ればパールスィーはごく少数であり、高齢化や出生率の低下が深刻な懸念材料となっている。高い教育水準と収入水準を維持する一方で、信徒数が減り続けることでコミュニティの存続が危ぶまれる状況もある。地域社会との摩擦やインフラの変化から、火の神殿や沈黙の塔の存続に関わる問題も浮上しており、宗教と社会のバランスをいかに保つかが問われている。

世界各地への広がり

近年はイギリスや北米、オーストラリアなどへの移民が進み、グローバルに散在するパールスィー・コミュニティが誕生している。現地ではゾロアスター教の文化交流イベントや同胞支援団体が活発に活動し、伝統の祭りノウルーズやガーンバーといった行事を通じて結束を深めている。こうしたディアスポラを通じて、古代イラン由来の宗教文化が世界的に認知され、新たな文化的融合を生み出す力にもなっている。