ナチス=ドイツの侵略と開戦
ナチス=ドイツの侵略と開戦とは、1930年代にナチスがドイツ国家を掌握して以降、再軍備と領土拡張を段階的に進め、1939年のポーランド侵攻を契機に欧州が全面戦争へ移行した過程を指す。これはヴェルサイユ条約体制への挑戦、経済・外交の計算、そして人種主義的世界観に基づく「東方」拡大構想が絡み合って進行したものである。
背景と基本方針
ナチス体制は、第一次世界大戦後の制約を「屈辱」とみなし、国家の再武装と国力回復を最優先課題に据えた。指導者であるヒトラーは、民族共同体の統合と反共主義を掲げつつ、資源と農地を確保するための「生存圏」拡大を政策の核に置いた。こうした方針は、外交交渉を利用して既成事実を積み重ね、相手国の対応が遅れた隙を突いて前進するという手法を伴った。
再軍備と国際秩序への挑戦
1930年代前半、ドイツは徴兵制の復活や空軍創設など、条約上の制限を実質的に無効化する再軍備を進めた。国内では経済政策と公共事業、軍需拡大が失業の改善に結びつき、体制支持を強める効果をもった。一方で、周辺国の安全保障は揺らぎ、国際連盟の集団安全保障構想は実効性を欠いたまま、力による現状変更が現実味を帯びていった。
段階的拡張の進行
オーストリア併合
1938年、ドイツはオーストリアを併合し、ドイツ系住民の統合を既成事実化した。これは「民族自決」を装いながら、軍事的圧力と政治工作で国家主権を解体する手法の典型である。併合により国土と人口を拡大し、軍事・経済資源の基盤を強化した。
ズデーテン問題と宥和
同年、チェコスロヴァキアのズデーテン地方をめぐる危機が発生し、英仏は戦争回避を優先して譲歩へ傾いた。結果としてミュンヘン協定が成立し、ドイツは軍事行動を大規模化させずに重要地域を獲得した。ここで得た成功体験は、限定的要求を提示して相手の妥協を誘い、次の要求へ連鎖させる拡張戦略を加速させた。
チェコスロヴァキア解体
1939年、ドイツはチェコスロヴァキアの残余を保護国化するなどして実質的に解体へ追い込み、もはや「ドイツ系住民の保護」という名目だけでは説明できない侵略へ踏み込んだ。これにより英仏は、次の標的となり得るポーランドに対し安全保障の保証を与え、抑止の構えを強めた。
外交工作と独ソ不可侵条約
1939年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結び、東方での即時衝突を回避しつつ、対ポーランド戦の条件を整えた。秘密議定書による勢力圏の取り決めは、侵略の実行可能性を高め、英仏の軍事介入があっても短期決戦に持ち込めるという見通しを与えた。この外交は、反共を掲げるナチスにとって理念と矛盾しつつも、戦略上の合理性を優先したものである。
ポーランド侵攻と欧州戦争の拡大
1939年9月1日、ドイツはポーランドへ侵攻し、これが第二次世界大戦の本格的開戦の引き金となった。ドイツは電撃戦的な機動戦を用い、短期間で軍事的優位を確保した。英仏はポーランドへの保証にもとづきドイツに宣戦布告し、局地紛争ではなく大国間戦争へ移行した。以後、戦争は西欧のみならず北欧、バルカン、東部戦線へ拡大し、占領地では統治機構と治安部隊が整備され、弾圧と収奪が制度化されていく。
侵略政策の特徴
- 外交交渉と軍事威圧を組み合わせ、段階的に既成事実を積み重ねた。
- 再軍備と経済動員を連動させ、戦争遂行能力を短期間で拡大した。
- 人種主義的世界観により、占領と支配が単なる領土獲得にとどまらず、住民の選別と排除を伴う構造をもった。
国際社会の対応と限界
英仏は大戦回避の意図から譲歩を重ねたが、その過程で抑止は弱まり、侵略のコストが低いという認識を与えた側面がある。戦争準備の遅れや国内世論の分裂、集団安全保障の脆弱さが重なり、危機への統一的対応は困難であった。結果として、ポーランド侵攻の段階で初めて明確な軍事対決へ転じたが、すでにドイツは戦争を開始できる条件を整えていたのである。
この一連の過程は、権威主義体制が国内統制と対外拡張を結びつけ、国際秩序の空隙を突いて戦争へ至る典型例として位置づけられる。ナチス=ドイツの侵略は、条約体制の崩壊、外交の失敗、そして暴力を政治手段として正当化する思想が結合した結果であり、欧州を全面戦争へ導いた重大な転換点であった。