ドイツ農民戦争
神聖ローマ帝国各地で起こったドイツ農民戦争(1524-1525年)は、在地共同体の慣行や領主権の強化、十分の一税などへの不満が、宗教改革の福音主義と結びついて一挙に爆発した大規模蜂起である。南西ドイツからフランケン、チューリンゲン、アルザスへ波紋のように広がり、農民・鉱山労働者・都市の職人層が参加した。背景には物価・地代・労役の上昇、森や水利・狩猟の自由の制限、封建裁判の濫用など構造的矛盾があり、宗教的にはプロテスタンティズムの「聖書に基づく正しさ」が領主的慣習の再検討を正当化した。指導層は地域ごとに異なり、急進的説教者の訴えや都市エリートの思惑も交錯したが、結末は諸侯軍と同盟勢力による苛烈な鎮圧であった。
発生背景
15世紀末以降、領主制の再編と課役の強化は在地社会に軋轢を生み、貨幣経済の浸透は現物義務を金納へ転換させた。森・川・牧草地など「共同のもの」へのアクセスは徐々に制限され、密猟・密漁への罰科と封建裁判の恣意が不満を増幅した。宗教面では、ルターが唱えた信仰義認説や聖書中心主義が、在来の慣行を「聖書に適うか」で測り直す視角をもたらし、共同体は自らの信仰と生活秩序の改革を主張しはじめた。政治制度的にも、皇帝・諸侯・都市が合議する帝国秩序は統治の空白を抱え、地域紛争の沈静化に時間を要した。
要求と「十二か条」
蜂起は無秩序な暴動ではなく、各地で訴願や盟約が作成された。中でもメミンゲンでまとめられたとされる「農民の十二か条」は、聖書の根拠に基づく改革要求として広く読まれ、以下の趣旨を示した。
- 共同体が牧師を選び、任免する権利の承認
- 十分の一税や地代の公正な運用と濫徴の是正
- 森・狩猟・漁撈・薪採取など共同利用権の回復
- 恣意的な労役・罰科・封建裁判の制限
- 農奴身分の廃止と自由移動の承認
- 慣行は聖書に適う限りで維持されるべきこと
指導者と思想
急進派説教者トマス・ミュンツァーは、終末論的言辞によって被支配層の宗教的覚醒を訴え、チューリンゲンで蜂起を主導した。他方、多くの地域では村落代表や都市職人が交渉を志向し、在地合意による秩序回復を求めた。宗教改革の主流を担ったルターの生涯の文脈では、信仰の自由と社会秩序の維持をどう両立させるかが課題となり、教説の政治的受容をめぐる緊張が露わになった。
戦況の推移(1524-1525)
- 1524年、南西ドイツで賦役軽減や共同利用権回復を掲げた蜂起が広がる。
- 1525年初、フランケン・シュヴァーベンに波及し、諸村が盟約を結んで城館包囲・租税停止に踏み出す。
- 春から初夏、諸侯軍とシュヴァーベン同盟軍が反攻。ヴァイツァッハ、エンゲン、そしてフランケンハウゼンで農民軍は大敗。
- 夏までに主要蜂起は鎮圧され、首謀者の処刑・罰金・特権確認が進む。
ルターの態度
ルターは当初、双方の自制と対話を勧めたが、略奪・破壊が広がると激しく蜂起を糾弾し、権威の回復を支持した。この転換は、救済の教理と世俗秩序の維持を峻別する彼の立場を示し、宗教改革が必ずしも社会革命を志向しないことを明らかにした。結果として、領邦君主が教会組織を管理する「領邦教会」的展開が強まり、宗教改革は制度化の道を歩む。
鎮圧と影響
ドイツ農民戦争の犠牲者は数万ともされ、多くの地域で重罰・賠償・特権再確認が課された。短期的には領主権の再強化と農村支配秩序の再建が進んだが、訴願文や盟約は後世の共同体権・年季解放の論拠となり、地方法文化の中に「聖書に照らす正しさ」という判断枠組みを根づかせた。都市では帝国都市の自治が揺れ動き、上からの宗教改革が主流化する一方、急進派や再洗礼派の弾圧も強化された。広域では、諸侯・皇帝・都市の均衡をめぐる政治はなお流動的で、16世紀後半から17世紀にかけての教派対立と戦乱(例: 三十年戦争)へと連なる。
統治と財政の連関
諸侯側の反乱鎮圧・軍備維持には資金が不可欠で、金融・鉱山業を担う都市・豪商のネットワークが重視された。とくにアウクスブルクのフッガー家のような資金供給者は、帝国政治の意思決定に影響を及ぼし、課税・特許・鉱山利権の再編を通じて秩序回復を後押しした。こうした財政・軍事・宗教の三位一体の再編は、神聖ローマ皇帝と領邦の力学を変容させた。
用語と史料の手がかり
「十二か条」や各地の盟約文書は、共同体が聖書と慣行を根拠に「正当性」を組み立てた史料である。蜂起の呼称としてのドイツ農民戦争は、地域差と主体の多様性を内包し、単一の革命としてよりも、在地秩序の再交渉という連鎖と理解される。宗教思想と社会秩序の関係を考える上では、宗教改革とその受容、ならびにプロテスタンティズムの規範倫理、都市自治や封建領主制の変容に着目すると全体像が見えやすい。