セレウコス朝シリア
セレウコス朝シリアは、Alexander the Great(アレクサンドロス大王)の死後に始まるディアドコイ戦争の結果、Seleucus I Nicator(セレウコス1世)がバビロンを拠点として建国したヘレニズム王朝である。一般的には紀元前312年から紀元前63年にかけて西アジアの広範囲に支配力を及ぼし、旧アケメネス朝領の大部分を継承する形で成立した。首都は当初バビロンが重要視されたが、後にシリア地方のAntioch(アンティオキア)に政治の中心を置くようになり、メソポタミアやシリア、イラン高原、アナトリア南東部まで影響力を及ぼした。Seleucid帝国とも呼ばれるが、「シリア王国」と呼ばれることも多い。プトレマイオス朝Egyptとの抗争や内部反乱、東方領の独立化などを経て、最終的にはローマRepublicの進出によって衰退し、紀元前63年にポンペイウスがシリアを属州化したことで王朝は滅亡した。ギリシア系支配層による都市建設や軍事植民政策は、各地にヘレニズム文化を根づかせ、後のローマ時代にも多大な影響を与えることになった。
建国の経緯
セレウコス朝シリアの成立は、アレクサンドロス大王の急逝後に生じたディアドコイ(後継者)たちの権力闘争に端を発する。プトレマイオス、リュシマコス、カッサンドロスなどが各地で勢力を伸ばす中、Seleucus Iはバビロンを獲得して強い基盤を築いた。彼はイプソスの戦い(紀元前301年)で他のディアドコイ連合軍とともにアンティゴノス1世を破り、シリア地域を含む広大な領土を手に入れた。その後はバビロンからアンティオキアへ政治の重心を移し、各都市にギリシア人植民団を配置して支配を安定化させていった。
領土と行政
セレウコス朝シリアは小アジア南東部、メソポタミア、イラン高原の一部、さらには中央アジア方面まで版図を広げる時期もあった。しかし広大な領土をまとめるためには軍事と行政が常に課題となり、州ごとに総督を配置しつつ、ギリシア人やマケドニア人を中心とした植民都市ポリスを建設する政策を採った。これによってヘレニズム文化が東地中海から深く内陸にまで拡散し、多言語・多民族を統合する下地が形成された。だが中央と地方の連携が脆弱になりやすく、独立を企図する地方勢力の反乱や隣接する強国との戦いにさらされることになった。
プトレマイオス朝との抗争
イプソスの戦い以降、セレウコス朝シリアはプトレマイオス朝Egyptとの間でシリアやフェニキア地域をめぐる紛争を繰り返した。特に紀元前3世紀後半から2世紀前半にかけて、いわゆるシリア戦争と呼ばれる一連の抗争が発生し、地中海東岸の覇権が大きく揺れ動いた。アンティオコス3世は一時的に領土拡大に成功したが、後にローマとの戦いに敗れ、勢力を西方から削られた。こうしたプトレマイオス朝との消耗戦やローマの介入は、王朝の財政と軍事力を衰退に導く要因となった。
東方領の独立化
一方、イランや中央アジア方面では各地で独立政権が台頭し、セレウコス朝シリアの東方領が次第に失われていった。パルティア(アルサケス朝)やバクトリアなどが有力化し、イラン高原や中央アジアの支配をめぐってセレウコス朝の影響力を排除していった。アンティオコス3世やセレウコス4世らが再征服を試みたものの、大規模な軍事費を賄う財政基盤が整わず、内政面の不安定も相まって東方領回復は困難を極めた。この東西両面での圧力が最終的な崩壊を加速させる。
代表的な離反例
- パルティアが独立し、メソポタミアの東境界を脅かす
- グレコ・バクトリアが中央アジアに強固なヘレニズム国家を建設
- それぞれが独自のコイン鋳造や外交路線を展開し、セレウコス朝の影響力を排除
ローマの介入と滅亡
アンティオコス4世エピファネスの時代にはユダヤ地域でマカバイ戦争が起きるなど、内政不安が深刻化していた。そこへローマRepublicが地中海東部に本格的に影響を及ぼし始め、アンティオコス3世のマグネシアの戦いでの大敗以降、シリア地方の独立性が大きく損なわれた。最終的に紀元前63年、ポンペイウスがアンティオキアを含むシリア全域をローマの属州化すると、セレウコス朝シリアは名実ともに滅亡した。こうしてディアドコイ国家の一角は消滅し、ヘレニズム時代も終末へ向かう転機を迎えた。
ヘレニズム文化への影響
セレウコス朝シリアは、政治的には不安定な面が目立ったものの、ヘレニズム文化をオリエント地域に広める上で大きく貢献した。アンティオキアやセレウキアなどの都市は哲学や科学、芸術の中心地として機能し、ギリシア語を公用語とする支配層と現地の文化が交錯することで新たな社会が形成された。ローマによる吸収後も、この地域はギリシア・ローマ文化とオリエント文化が融合する独特の文明圏として発展し、後の東ローマ帝国やイスラム文明に至るまで多様な遺産を残した。